お念仏は教えられないと口から出てこないものなのか?

こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

日本に数多くの仏教宗派がありますが、その中で、浄土真宗と言えばあなたは何を連想するだろうか。

直感的には次のような言葉かな。

  • 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)?
  • 極楽浄土(ごくらくじょうど)?
  • 親鸞(しんらん)?
  • 念仏(ねんぶつ)?
  • 本願寺(ほんがんじ)?
  • なんで頭を剃らない?

人それぞれにイメージするものは違うだろうが、私たちにとって何が一番大切なのだろうか。

阿弥陀仏が大切なのか。浄土が大切なのか。親鸞が大切なのか。お坊さんの身なりが大切なのか。

さあ、なんでしょうか。

結論から言えば、「阿弥陀仏からたまわった信心を頂き、念仏に生きるということ」です。

もっと簡単に言えば、他人と競争し人よりも良い生活をすることではなく、今の私のいのちがあることが何よりも有難いことであったと気が付き、その命のつながりに感謝して生きるということです。(簡単に言えていない?)

難しく言えば、「信心正因・報恩感謝」「称名念仏」「本願成就」などが挙げられます。でもこれらは難しい言葉で、私も十分に説明できません。

阿弥陀さんの教えとは難しいもので、理解した人のみが救われるのだろうか?

冒頭回りくどい話をしましたが、今回の話のテーマは『南無阿弥陀仏のお念仏は教えられないと口から唱えられないのか?』です。

最近は法事に行ってもお念仏の声が聞こえません。お寺のご法座でもいまいちな感じです。

『お念仏とは何だろうか?』私なりの言い方で難しくならないように書いていきます。

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信心が一番大切なのか。

言うまでもなく、信心(信ずる心)は一番大切です。

でも信心が大切なのは別に仏教の浄土真宗に限った話ではないでしょう。

世界のどの宗教・習俗を見たって信心が大切なのは言うまでもないでしょう。人間関係だって、相手を信頼信用しているから成り立っています。

信心とは一番大切なのですが、純粋に仏様の教えを信じるのは難しいものです。

私たち人間はどうしても自分にとって都合のいいようになってほしいと願ってしまいがちです。

ですので、仏様を頼って信じているのではなく、仏様を信仰することによって見返りが欲しいという取引になっていることが多いです。

浄土真宗では「信心正因」といい、阿弥陀仏の願われた「必ず必ず救う」という誓いがこの私に届いたすがたのこころをさします。

信心(信ずる心)が大切ではあるが、仏様の願いに気が付くのかはまた別問題。

念仏とは何のためにするのか。

浄土真宗の宗祖親鸞聖人が書かれた「正信念仏偈」のなかに次の一節があります。

本願名号正定業(ほんがんみょうごう しょうじょうごう)

至心信楽願為因(ししんしんぎょう がんにいん)

浄土真宗のお念仏とは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号(みょうごう)のことです。

名号とは仏の名前のことです。阿弥陀仏に帰依する・阿弥陀仏にお任せしますという意味です。

なんでこれを口に出すのか?

それは阿弥陀仏が「私の名前を称えなさいよ」「阿弥陀仏の願いはこの名前に込められていますよ」「あらゆる仏もこの名前を讃嘆していますよ」と約束されたからです。

そして本願の名号は悩みの中に生きている人を必ず救うという阿弥陀仏の働き(業)を表しています。

阿弥陀仏の約束された名号のはたらきがこの私に届き、それを頂いていくことが浄土往生する(因)ということです。

阿弥陀仏を信仰する信頼する、そして信心するというのは非常に大切です。

しかしいきなり信じろと言われても信じられないものです。

ですので阿弥陀仏は、この私を救おうとするはたらきを、仏の名前にすることに込めたのです。

念仏で直接救われるのではないのですが、念仏を称え、私の耳に心に届く中で、阿弥陀仏の願いに気が付き、それが浄土往生の因になるのです。

だからお念仏とは大切なのです。

お念仏とは気づきであり、私に気が付いてくれよという仏様からのお呼びかけなのです。

お念仏はなぜ口に出すのか?

浄土真宗は「聴聞(ちょうもん)」という言葉をよく使います。

何を聞いていくのかと言うと、阿弥陀仏の願いです。

阿弥陀仏の願いとは、悩みの中に生きている人を必ず救うこと。自分の力では助かることのできないような人を救いの目当てにしていることです。

じゃあどうやって、阿弥陀仏の願いが自分の力では解決できない人に届くのか。

それがそれが仏の名前(名号)です。

仏の名前の中に阿弥陀仏の願いの働きが込められているのです。

念仏を口に出すというのは、私たち人間が仏様のためにしているのではありません。

この私の口から出る念仏を聞いていくことで、仏様の願いがこの私に届いていくということです。

浄土真宗は念仏を「称名(しょうみょう)念仏」と言います。唱名(しょうみょう)とは表記しません。

これは口からただ文字を唱えるというのではなく、仏の願いの働きが間違いなくこの私の口を通して届き称えられていることを表しています。

私の口から出る念仏そのものが仏様なのです。仏様ではなく、わたしに向けられているのが念仏なのです。


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さいごに。念仏とは報恩感謝であり、相続するもの。

宗教にとって大切なのは信心です。

しかし「信心をたまわれ」と言われても信心なんていただけません。「何言ってんのあなた」と反発されたりします。

浄土真宗の念仏は「報恩感謝の念仏」と言われます。

阿弥陀仏の願いはお念仏によってこの私に届けられています。

言うなればお念仏を口に出す姿を通すことによって、私に気が付いてくれよと示しているのです。

浄土真宗のお念仏は報恩感謝、お礼参りのお念仏と言われます。

私に届けられたお念仏の姿を喜び、もったいなあ・有難いなあといただけていることが仏様の恩に応える姿となって仏の名を称える念仏となるのです。

そしてそのお念仏をすることによってますます仏様の願いを聞くご縁にあずかります。

また有難いことにお念仏の声というのは私一人だけに聞こえてくるもの届けられるものではありません。

仏の名を聞く周りの人も同じように仏の願いに出あう機会を頂いているのです。

昔の家ではお爺さんやお婆さんがお仏壇の前に座り、南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)と参っていたでしょう。意味が分かるから口に出していたのでしょうか。

いいえ意味の分かっていた人は少ないでしょう。毎日の生活できていることを仏様に参る中で南無阿弥陀仏の名号を口に出す中で感謝申し上げていたのです。

そして子供ながらに呪文のように聞こえていたお念仏の声が耳に残っていたことでしょう。

念仏を唱えることで健康になったりお金持ちになったりはしません。しかし仏に見守られているという願い・周りの支えつながりによって生かされていることへの感謝がお念仏となってお礼できていたのです。

お念仏を口に出すことは、「しなさいよ」と教えられるからするのではなく、祖父母や周りの人たちが口にする仏の名を聞くことによって、またそのお念仏をしている姿を見ることを通して、気が付かされていくのです。そこには見返りはありません。

浄土真宗では親鸞聖人が「顕浄土真実教行証文類」を書き残されました。

これは「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」と呼ばれ、教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻の順に六巻から構成されています。

おそらく私たち人間は、

  1. 「教え」があって、
  2. それを「信じる」ことをして、
  3. 「行動」をして、
  4. 「結果」を得ると考えるでしょう。

でも浄土真宗は、

  1. 阿弥陀様の「教え(願い)」があって、
  2. 「行動(お念仏)」をして、
  3. 「信じる(聞信)」により、
  4. 「結果」の順番になります。

お念仏を称える姿、お念仏を聞いていく姿の中に、仏様の願いが聞き届いていく身になるのです。

『お念仏は教えられないと口から出てこないものなのか?』

「お念仏を称えるとこんな結果を得られますよ~」と言われても、私たちは「はいそうですか。口に出します」とはならないでしょう。

むしろ、お念仏を中心に感謝ある生活をしていた人たちの姿を見て聞いていき、そしてまた自分自身が法事など先祖を敬う機会に、意味が分からなくても幼い頃に聞いた「南無阿弥陀仏」のお念仏を口に出す中に、「私たちの先人たちはいったいお念仏の中に何を頂いてきたのだろうか」と仏様の願いを訪ねるご縁に出あうのです。

人から教えられることによって口に出てくるのではなく、お念仏の称えられている姿を見ていく中に、自ずとその人だけでなく私も仏様の願いに出あっているのです。

そういう意味では、昨今の家の中に手を合わすことができるお仏壇がない家庭が増えていることや、先祖の命日のお勤めに参らない家庭が増えていることが残念に思います。彼らはこれから生きていく人生の中で、何に感謝をして、何をどのように敬っていくのか、その姿が分からないのではないだろうか。

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