こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
今日は丸亀の郡家町にあります真宗興正派の郡家別院に行ってきました。
理由は親鸞聖人の報恩講法要の練習のためです。
ついでではありませんが、本堂の裏にあります納骨堂をお参りしてきました。
別院には京都の本山までお納骨に行けない人が納骨されることが多いのですが、
今日は「なぜお骨を納めないといけないのか」についてお話します。
お骨を納めるって大変ですよね。
お骨を納めることに決まりはあるのか。
必ず納めないといけない決まりは、ないです。
日本の法律ではどうなっているのか。
日本には火葬の方法・死体の扱いに関する法律に「墓地、埋葬等に関する法律」というのが存在します。略して墓地埋葬法とも呼ばれます。
しかしこれは死体の扱い全てについて書かれていることであって、納骨については縛られていません。ただし第4条より墓地以外に焼骨を納めてはいけないことになっています。
もっと言えば、火葬に限定しているわけでもありません。現在では非常に少なくなりましたが、土葬についても触れられています。
仏教には決まりはあるのか。
仏教ではどこにお骨を納めるかの決まりはないんですね。
宗派によって決まりはバラバラですし、もっと言えば同じ宗派でもお寺の僧侶によっては言っていることが違っていたりしています。
ただよく言われる言葉に、「本山に納骨してはどうですか。」とは言いますね。
しかしこれもおすすめであり、決まり(約束事)ではありません。
さて、ここからが本題になります。
なんで納骨する必要があるのか?
日本では亡くなった後、お骨の状態がほとんど。
今現在の日本では死体の処理が火葬が一般的になっております。
2010年では火葬率が99.94パーセントと世界一の火葬大国になっています。これはお釈迦様が亡くなられた後火葬されたことから、仏教では火葬が勧められるようになったことや、高温多湿の日本という環境では土葬という埋葬法は伝染病など悪影響が心配されたからである。他にも様々な要因があるが割愛。
亡くなった後はお骨が残るのですが、皆さんお骨をどうしていますか。
お骨は骨壺に入っています。
火葬した後、遺族の方は骨壺に故人の焼骨を納めますね。骨壺にお骨を入れることで故人の遺骨を丁寧に持ち運んでいるのです。
それからの扱いは宗派によって違ってくるので、
ここでは真宗興正派の場合で進めます。
49日法要(満中陰)までは納骨しない。
持ち帰ったお骨はどうするのか。
中陰のお勤めをしますね。一週間ごとにお勤めをし、7回目の週で49日の法要をします。
中陰の時には、どこにお骨をおまつりするかご存知ですか。
中陰壇に置くのです。(←ここが今回の肝です。)
中陰壇って白い布で覆った台のことです。仏壇とは別にお骨をまつる場所を変えなけらばなりません。
なぜわざわざ、お骨を置く壇を設けなくてはならないのでしょう。
お仏壇に置きたいですよね。
簡単に説明しますと、お仏壇とは仏様を安置するための壇です。
お骨は仏様ではありません。
真宗ではお骨に対して拝むということはしないのです。
お骨というのは故人が、今、生きている人たちに見せることができる最後のお姿になります。
お骨そのものには拝まないのですが、故人を粗末に扱わない、故人を通して仏縁に出逢い、故人を偲んでいくこと、これが真宗の中陰(喪中)ということになります。
中陰の期間は身近な人との別れという「悲しみの日々」となるのですが、真宗では通仏教にならって、49日法要をもって喪を明けます。
49日以降は喪が明けるため、納骨をするのはこの法要以降となります。
そして大体1周忌までには納骨するようにおすすめします。(強制ではありませんよ。)
納骨できない場合、お骨はどこに。
お仏壇にはおまつりすることができません。
理由は先ほどの通りです。仏壇とは仏様(御本尊)を安置するところです。また真宗ではお骨を拝みません。
しかし個人の遺骨を粗末にすることはできないですよね。
そこで白い布で覆った台を引き続き置いておき、そこに骨壺を置きます。
本来は真宗では中陰の期間がなくても、阿弥陀様のはたらきによって浄土に生まれさしていただいていただいているので、中陰によって故人が仏になるわけではありません。
むしろ中陰の間に、お墓や納骨壇などに納骨する準備をするのです。
中陰とは遺骨の今後のおまつり場所を用意する期間であるとも言えます。
なぜお骨を納骨しなければならないのか。
繰り返しますが、これは真宗的な考え方です。宗派によっては考え方が違っています。
お骨というのには、「魂」が入っているわけではありませんし、ましてやそれが「故人そのもの」や「佛」という捉え方もしていません。
中陰のお勤めとは故人を偲び、仏縁に出逢うために、また悲しみを和らげるために喪の期間としてあります。
しかし私たちは故人との思い出に浸っていたり、いつまでも悲しんでいるわけにはいきません。
別れは辛いのですが、どこかでその悲しみを乗り越えて日常の生活に戻らなければなりません。
その節目となるのが納骨です。
真宗ではお骨にはとらわれません。
言い換えますと、お骨(故人)中心の生活ではなく、仏様中心の生活になるということです。
お骨をお仏壇に置いておきたい、手元・側に置いておきたい考える人も多いと思います。しかし故人との未練を断ち切れない生き方をいうのは空しいと思いませんか。いつまでも故人と繋がろうと思っていてもそれはあなたからの一方的な思いではないでしょうか。
百か日法要のことを別名に卒哭忌とも呼ぶ。
百か日法要は卒哭忌(そっこくき)ともよばれています。
「哭」とは声をあげて泣き叫ぶこと。「卒」は終わる・終える、という意味です。
つまり個人のことを思い続けることを、泣き悲しんでいた人たちも泣くことをやめる時、それが百箇日を迎える頃だ、ということから卒哭忌といわれるようになったのです。
本来は通仏教でも満中陰法要で故人が佛になるとされるのですが、身の濃い親兄弟・子・孫・残された人の悲しみというのはなかなか言葉で表すことができないものがあります。
そこで満中陰法要で一つの節目があっても、重ねて百か日法要という節目があるのです。この日をもって故人との直接のつながりを終えること。それが今を生きている私たちが故人をご縁としての仏道生活になるのではないでしょうか。
仏教では私たちを導いてくださる仏様が生き方の中心です。
一周忌までに納骨するのが望ましい。
繰り返しが多いですが、もう一度言います。
お骨とは佛様ではないのです。
真宗はお骨を拝まないですし、供養もしません。
ですので一周忌の法事でお骨がまだ家にあるのは、何となしにおかしいと感じます。
理由は先ほど書いた通りのことです。仏様と向き合った生き方が出来ていないんだなあと感じるからです。
真宗での仏事とは節目の意味があります。
一周忌のお勤めにもその節目の心があります。
一つは「故人を偲ぶこと」です。
一周忌法要にお参りしている人たちは故人とご縁の深い人たちばかりだと思います。参列者が故人の思い出話をし、そして自分たちの今をを故人に報告したりします。
もう一つは「勝縁(しょうえん)を結ぶこと」です。
先に亡くなられた方のお骨は仏様ではありません。しかしその法要は、日常仏様に向き合うことができない人も、仏縁を結ぶことのできる勝(素晴らしい)機会だということです。
つまり法要は亡き人を偲ぶとともに、仏縁を結ぶ大切な節目の儀式となります。お骨が傍にないといけないことはなく、悲しいまでの別れをした大切な人との別れに向き合うことが重要になります。
【まとめ】納骨をする理由
- お骨は仏様でないので、仏壇に安置できない。
- 真宗のお勤めとは、故人との別れの節目である。
- 故人中心の生活ではなく、仏様中心の生き方が仏教である。
- 悲しみを乗り越え、仏縁のご縁とする。
ただし勘違いしてはいけないことがあります。
お骨をどこかに納骨して傍から離れたところでおまつりすることは、
故人を軽んじたり、粗末に扱うということではありません。
故人が粗末にならないように相応しいところで納骨することが大切です。
仏教の開祖に釈迦如来がいます。
この釈尊のお骨というものは荼毘に付した後、お弟子さん方がそれぞれ持ち帰ったとされています。それはお骨が価値のあるものというものではなく、そのお骨をインド各地に届け、そのお骨を納めた仏舎利塔を建立することで仏教の教えをよりご縁のある方々に届けようとしたのです。
決して納骨をすることが粗末になることではないですし、
遺骨・故人を粗末にするものでもないです。
納骨した後も納骨場所にお参りを定期的にしましょうね。
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さいごに、それぞれの考え方。
お骨に対する考え方は、宗派や各々の家庭の事情によっても異なってくるものです。
今回は浄土真宗ではこのように考えていることを紹介しました。
お骨が故人そのものだという考えの人もいるでしょうし、お骨をどこかに預けるのに抵抗を感じる人もいるでしょう。
現代では多様な価値観が尊重されています。
もっと言えば、今まで家がご先祖が頼りにしていた檀那寺であっても、残された人の考え方が合わなかったり、気に入らなかったらお骨を好き勝手にできているということです。
ここ数年では散骨や樹木葬、人工ダイヤモンドにする手元供養など様々な形があります。一見すると故人のことを深く思っているようですが、そのような生き方というのはお骨にとらわれている姿であり、とても仏教的とは思えません。
また納骨をしてもお参りをしない納骨しっぱなしという人もいます。お寺によってはお金とお骨を郵送してくれたら預かりますよという寺院もあります。お寺がこれでは駄目ですね。お骨がただの物になっています。
お骨を納骨することで故人との節目を設け、今生きている私たちが仏様に出逢うご縁になること、これが大切ではないでしょうか。
お金も手間もかかって大変なように感じますが、一生涯に何度体験しますか。多い人でも祖父母・兄弟・伴侶で5回程度ではないでしょうか。
悲しい肉親との別れというものはそうそう経験することではありません。言わば非日常になるということです。その非日常と元の日常生活を戻すきっかけが儀式であり、納骨という節目でもあります。
この納骨という節目を通して、今まで気づかなかった仏縁と出会わしていただくありがたいご縁となります。
お金や手間がかかるのは重々承知なのですが、肉親の遺骨というものは非常に有難いご縁をいただけるものですので、無理のない範囲で、粗末にならない納骨をしてもらいたいです。
また別の機会で、納骨をする場所や方法などを紹介します。