こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
私も今年で27歳になり、御門徒さんへのお参りする割合も住職と変わらないようになりつつあります。
お参りしますと初めてお会いする人もいらっしゃるんですね。
すると「年齢はおいくつなんですか。」とか、
「御住職さんの息子さんですか。」とか、
「いつごろからお参りに出かけられているのですか」等々、
まるで身辺調査のような質問をされるのですが、私も雑談が好きなので、ペラペラとおしゃべりをします。
それはさておき、「お勤めが上手いですねえ」とか「すごく聞き取りやすいですね」等々、お経の読み方に対して尋ねられることがあります。
この時私は返答に少し困るんですね。
今回は、お経の読み方に上手・下手があるのかというお話です。
お経の読み方に上手い下手はあると思いますか。
上手なお経の読み方とは何だろう。
お坊さんの称えるお経に、うまいと感じることがありますかね。
例えば私の場合はお勤めが上手ですね。と言われます。(お世辞かな?)
すると私はどうして上手だと思うのですかと聞きますと、次のような言葉が返ってきます。
- お経の漢字一語一語がはっきりと聞き取れること。
- すなわち声が大きく、高らかと上げている声。
- 声に抑揚が感じられる。
なるほど、確かにこれらはすべて上手だと感じる要因かもしれません。
では逆に下手なお勤めとはどういうものなんでしょうか。
下手なお勤めとは。
上手い下手の話になりますと、決まって似たような話の展開になります。
それは「あそこのお坊さんはお勤めが下手なんよ。」、「何言っとるのか分からへん。」という感じです。
何が下手かと聞くと「声が聞き取れない。」、「蛙を潰したような声」、「まるで眠っとるかのような声」等々です。
その話を聴いて私が思うことは、聞き取りにくい声質や声量のお勤めは嫌われる傾向にあるんだなあと思いました。
上手い下手の大きな違いとは。(一般人目線)
上で例を挙げたように、大きな違いは声の質と大きさです。
例えばですが、お仏壇の前にお坊さんがお参りに来まして、
ぼそぼそとか細い声でお勤めをしたり、音がつぶれて言葉が聞き取れないのは下手なお勤め。
大きな声で、一語一語をはっきりと音に出して称えるのは上手なお勤めということです。
それは間違いではないのでしょうが、お寺さんから見れば考え方が違います。
お経に上手い下手はない。(僧侶目線)
多くの方に誤解があると思うのですが、お経というのは本来棒読みするものですよ。(ひょっとしたら宗派によって異なるかもしれませんが)
経典というのは、仏様の金言ですので節や抑揚をつけずに読むものなのです。そして仏様の教えが説かれた言葉をお勤めしているのですから、それに良い悪いというのはあり得ないのです。
ですのでお経の読みを正しくすれば、物足りないなあと感じるかもしれません。
納得できないかもしれませんが読経に上手い下手とはありえないのです。僧侶の立場としては。
ご仏前でお勤めをし、亡き人のご縁をいただいて仏法に出遇わしていただくことが、仏事の重要な意義なので、「このお坊さんのお勤めは上手いから有り難い」、「この坊主は下手くそやから有り難くない」ではないのです。仏法に出遇わしていただいているそのご縁が重要なのですから、お経に上手い下手はないです。
お経はお経です。
ですから私は、お勤めが上手ですねと言われても、そう思っていただけて幸いですとしか言いようがないです。
真宗僧侶がお勤め(称え方)で気を付けていること。
さてお勤めに優劣・上手い下手がないと言っても、実際には「こちらの方のお勤めの方が良い」と思ってしまうのが人間です。
そしてそれは僧侶も一緒です。ただしそれは上手い下手で判断しているのではありません。
お勤めをするときのポイント。
読経の際、真宗のお坊さんが気を付けていることがあります。
「耳でお勤めをする」ということです。
もっとわかりやすく言えば、「耳に届いてきた音を聞いてから、自分の口に称える」ということです
そしてこれは自分一人だけでお勤めするときにも当てはまります。
真宗では「聞法」が重要なキーワードになります。
上で紹介しましたが、経典とは仏様の金言です。仏様のお言葉を耳にしてそれを私が称えるのです。
何を言っているのかすぐには分からないかもしれませんが、機会があれば試してみてください。これだけでお勤めの上手い下手なんて気にならなくなります。また自分の声を聴いて称えることにより自然とお勤めが安定します。
真宗では次のような有名な歌があります。
み仏を よぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり
甲斐和里子 作
自分の口から出てくるお勤めとは、自分が出そう出そう・良い声でお勤めをしようと思ってお勤めするのではなく、実は私の口から出てきている言葉というのは、仏様がこの私に願いを届けて下さっているのだと自分が「聞く」ことによってはじめてそのお勤めのこころが頂けるのです。
それはお寺さんが集まって読経をするときも同じです。
仏事では必ずお勤めの最初の句頭を読み上げる導師という人物がいます。
お坊さんたちはこの人の声の調子を耳で聞き、読経をしていくのです。そして他の人のお勤めの声を聴きながら自分もお勤めしていくのです。
私が外でお勤めをするときに気を付けていること。
一つは先ほど説明したように「声を聴いてお勤めをする」ことです。
もう一つ私が心掛けていることは「大きな声でお勤めをする」ことです。
これは私が心掛けていることなので、他のお坊さんには当てはまりません。
この大きな声でお経を読むことには2つ理由があります。
- 将来のため
- お参りの方のため
実はこの大きな声でお勤めをすることは私のお父さん、つまり住職からのアドバイスです。
小さい声で自分のすぐ近くの人にしか聞こえないようにお勤めをしますと、将来いざ大きな声でお勤めをしないといけない場に出たときに声が出なくなるとのことです。年を重ねていくと段々と声量が落ちてくるそうです。若いときに声を出さないと、年を取ってからだと声を出そうとしても出ないらしいです。
お参りの方とは、そのまんまですね。
先ほども言ったように、お勤めとは自分の声を自分で聴き声に出すので、自分の耳に聞こえる程度の声の大きさでいいはずです。
しかしお参りに行っている以上、後ろにはお参りの方がいらっしゃるはずです。家によっては廊下の向こうや家にいても出てこない・出てこられない人もいます。そのような方たちにもお勤めの声が届くようになるべく大きな声を出しているのです。
自分だけに聞こえるようにお勤めするのなら、家の人はお坊さんを呼ぶ必要はないんじゃないですかね。お参りの方と共にお勤めの場をいただきましょう。
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さいごに
お勤めが上手いとされる人は声が似ているのは。
お勤めにはそれに長けた先生のような人物がいらっしゃいます。
その方は上手い・下手かと言われればうまいという分類になるのですが、正しい言い方をしますと、お勤めが正しく決められた通りに発生ができ、人に教えられる方が先生となっているのです。
そして私のような人はそのような人物に学ばしていただくのです。
私もお寺さんだらけの中で一人でお勤めをしたことがあります。なんとか無事にお勤めができたのですが、お堂を出ますと、「○○(先生)みたいでしたよ」と声をかけられました。つまり褒められたということです。
ただし聞くお勤めができている人は、自然と声が大きくなっていると感じます。それは自信もあるのでしょうし、やはりお参りの方々に・その空間にお勤めの声が届くように意識してるのでしょう。そのためにはお腹から声を出さなければなりません。
もちろん最終的には声帯や舌・口の動きで音を出しているのですが、お腹から声を出すことで響きのある音もでますし、耳に届きやすくなるそうです。
そしてお腹から声を出す人は自然と声の感じが似てくると聞いています。
しかしお経には癖が必要だとも思います。
私はお寺さんの集まってお勤めする時と、御門徒さんのご仏前にお参りするときのお経の読み方は変えています。
それこそ上手だと言われるような読み方をしています。
それは私がご門徒さんから褒められたいから聞き心地のいい、響きのある声を出しているのではありません。
最初の方で言いましたが、お経というのは本来は棒読みをするものです、節が付いているような偈文でもきちんと読むルールがあります。
しかし私たちお寺さん一人ひとりが持っている癖というのも、私は大切だと感じています。
お寺さんの子供さんが自坊の後を継ぐことが多いですね。私のような若坊がお参りに行きますと、御住職さんや先代さんとお声がそっくりですね、「落ち着きます」、「安心します」と感想を言われます。
読経とは「経を読む」とは書きますが「聞いて唱える」のが大切です。お寺の小僧さんというのは小さいときからお父さんやお爺さん、家族のお勤めを聞いて育ってきました。するとその声にだんだんと近づいてくるんですね。それは親子・家族だからでもあります。
檀那寺と檀家さんのつながりとは永代に渡るものです。
ただしくお勤めするのももちろん大切ですが、その家との今までお付き合いそしてこれからのお付き合いがつなっがていくのは、各お寺さんと檀家さんとの間で出来上がってきたお勤めの形だと思います。
ですので私はこれからもお参りの際は、私が育ってきたお勤めの声を出しますし、その声を聴いて一緒にお勤めをしたご門徒さんが、「御住職さんとお声が似てきましたね」と言われるのが、私にとっての最上の誉め言葉です。
お経は上手い・下手ではありません。
お経のお言葉を頂き、思いを共有できることが肝心なのです。