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【疑問】阿弥陀仏の浄土は人が存在するはるか前からあるんじゃないの。何かおかしくない?

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こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。

私は浄土真宗のお坊さんでして、仏法を伝えていくのが使命であります。

仏法とは言葉・文字だけで表せられるものではないのですが、普通の人にはとりあえず言葉・文字によって教えなければ伝わらないものです。

それでお坊さんとは皆さんに仏法をわかりやすく伝えられるように、お坊さんの勉強会に参加して経典や聖典の内容や仏教の言葉などを学んでいます。

さて私は浄土真宗のお坊さんですので、「仏説無量寿経」・「仏説観無量寿経」・「仏説阿弥陀経」を主に学びます。(書いている内容はわかるのですが、そこから仏様の法をいただいていくのは難しいところです。)

さて今回の話のテーマ

阿弥陀仏の建てられたお浄土は、人を救うために願われたのだが、何かおかしく感じないだろうか?

この疑問は私の中でもまだ未解決な内容です。

それでも私が思うところのことを書いていきます。

前置き】阿弥陀仏のお浄土とは。

阿弥陀仏の開かれたお浄土のことを、極楽浄土(ごくらくじょうど)と呼ぶんですよ。

「極楽に生まれる」と言えば、それは阿弥陀仏のお浄土に生まれるという意味に限定されてしまいます。

阿弥陀仏の浄土世界の名称は他にも複数存在しています。(後世の人が名づけた名称もあります)

  • 西方浄土(さいほう)
  • 安楽浄土(あんらく)
  • 安養浄土(あんにょう)
  • 無量光明土(むりょうこうみょうど)
  • 蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)
  • 真実報土(しんじつほうど)

これら以外にもまだまだ数多くの名称が阿弥陀仏の浄土には名づけられています。

さて簡単に阿弥陀仏の浄土を説明したところで、次に阿弥陀仏が極楽浄土を建立されたいわれを簡単に紹介します。

極楽浄土はどうして建てられた?

簡単に紹介するのが難しいので、とりあえず仏説無量寿経で該当している箇所を引用します。

佛告阿難 法藏比丘 說此頌已 而白佛言 唯然世尊 我發無上正覺之心 願佛爲我 廣宣經法 我當修行 攝取佛國 淸淨莊嚴 無量妙土 令我於世 速成正覺 拔諸生死 勤苦之本 佛語阿難 時世饒王佛 告法藏比丘 如所修行 莊嚴佛土 汝自當知 比丘白佛 斯義弘深 非我境界 唯願世尊 廣爲敷演 諸佛如來 淨土之行 我聞此已 當如說修行 成滿所願 爾時世自在王佛 知其高明 志願深廣 即爲法藏比丘 而說經言 譬如大海 一人升量 經曆劫數 尚可窮底 得其妙寶 人有至心 精進求道不止 會當剋果 何願不得 於是世自在王佛 即爲廣說 二百一十億 諸佛刹土 天人之善惡 國土之麁妙 應其心願 悉現與之 時彼比丘 聞佛所說 嚴淨國土 皆悉覩見 超發無上殊勝之願 其心寂靜 志無所著 一切世間 無能及者 具足五劫 思惟攝取 莊嚴佛國 淸淨之行 阿難白佛 彼佛國土壽量 幾何 佛言其佛壽命四十二劫 時法藏比丘 攝取二百一十億 諸佛妙土 淸淨之行 如是修已 詣彼佛所 稽首禮足 繞佛三帀 合掌而住 白佛言世尊 我已攝取 莊嚴佛土 淸淨之行 佛告比丘 汝今可說 宜知是時 發起悦可 一切大衆 菩薩聞已 修行此法 縁致滿足 無量大願 比丘白佛 唯垂聽察 如我所願 當具說之

このお経文の個所は、『嘆佛偈(たんぶつげ)』と『四十八願』の間にあります。

少し説明します。

『嘆佛偈』とは「光顏巍巍 威神無極(こうげんぎぎ いじんむごく)」で始まる偈文で、日常のお勤めでもよく読んでいますよね。

この嘆佛偈とは、法蔵という菩薩(阿弥陀仏の菩薩の時の名)が師である世自在王仏を褒め称え、法蔵の願いを師の前で述べた箇所です。

そして『四十八願』とは「設我得佛(せつがとくぶつ)」で始まる阿弥陀仏の願い誓いであり、極楽浄土を立てるにあたって願われた48個の誓願の個所です。

上の引用文はその嘆佛偈と四十八願に挟まれているところです。

内容は、自身の浄土を立てる願いをした法蔵菩薩に対し、師の世自在王仏が210億もの諸仏のお浄土をお見せになったが、法蔵菩薩はそのいずれのお浄土よりも優れた独自の浄土の建立を願われたというものです。

つまりは極楽浄土がどのように建てられたかと言えば、菩薩であった阿弥陀があらゆる衆生を救いたいという菩提心を起こし、それに対し師の仏が法蔵に210億もの諸仏の浄土の様子をお見せになったのである。それを見ていった法蔵がどこよりも優れた浄土の世界を立てることを願ったのである。

いずれの浄土よりも優れた浄土とは?

さていずれの浄土よりも優れた浄土とはどういった浄土なのだろうか。

実は経典にはこの疑問に明確に答えた箇所はありません。(私の勉強不足で気付いていないだけかもしれませんが)

ただ私の思うところはあります。

210億もの数の浄土の世界を見て行けば、一つ・二つは法蔵菩薩も納得のいくお浄土があってもいいはずとは思いませんか。

でも法蔵菩薩は満足できなかった。もっと優れた世界を願おうと。

それはおそらく210億もある諸仏の浄土はすべて自力の浄土、つまりは自分の力で行くことができるお浄土だったのではないでしょうか。

法蔵菩薩は嘆佛偈の中で、あらゆるすべての人を救いたいと師に述べています。

しかし諸仏の浄土は人を選んでいる、自分の力で仏になれる人が行ける世界だったのではないでしょうか。

浄土に生まれ行くことができない人、行くための徳が積めない人、原因を作れない人、どうしようもない人、そういう人のために願われたのが阿弥陀の浄土ではないのだろうか。

あるゆる人が阿弥陀仏のお浄土に生まれることができるのだから、阿弥陀仏の浄土はいずれのどのお浄土よりも優れているのではないだろうか。

【以下、本題】阿弥陀仏が要した時間。

阿弥陀仏はまず法蔵菩薩の時代に210億もの諸仏浄土の世界をじっくり見渡しています。

これにどれくらいの時間がかかるかわかりませんが、莫大な時間、想像もできない時間を要しているでしょう。

その後法蔵菩薩はあらゆる人が救われるお浄土の世界を建立するために五劫という長い時間思惟し続けました。(上の引用文の「具足五劫 思惟攝取」に当たるところです)

「劫(こう)」という言葉は一応時間を表しているものです。

劫の説明は色々あるのですが、例えば、縦・横・高さが40里以上もある石が100年に一度舞い降りる天女の羽衣一撫でで消滅するくらいの時間の長さとも表現されます。

その途方もない一劫の時間の長さ×5倍の五劫を法蔵は思惟し続けて極楽浄土建立の48の願いを誓われたのです。

更に言うと、無量寿経・阿弥陀経には「成仏已来 凡歴十劫」・「阿弥陀仏成仏已来 於今十劫」とあるように、釈迦が説法した時よりさらに十劫もはるか昔に阿弥陀は仏になったされています。

つまり阿弥陀仏の要した時間はこう表されるでしょう。

210億の諸仏浄土を覩見  莫大な時間
一切衆生を救う浄土の建立を思惟 五劫
誓願を成就し阿弥陀仏になってから釈迦が説くまで 十劫

とんでもなく長い時間が経過していますね。

あれ、何かおかしくないだろうか?

私の感じる疑問。

  • 阿弥陀仏は法蔵菩薩のころに、あらゆる衆生、すべての人を救いたいと願った。
  • しかしそれははるか10~15劫も昔のことである。
  • そんなときにあらゆる衆生・人はいたのだろうか?

一切衆生とはあらゆる衆生という意味ですが、仏教ではとりあえず人のことを指します。

衆生とはあらゆる生き物のことを指すのですが、仏教では特に人を指すことが多いんですね。

それは人が優れているからや偉いからではなく、逆に人というのは悩みが多く苦しんでいる生き物だからです。非常に問題の多い生き物が人なんです。

で、法蔵は問題の多い人を救うために浄土建立を願われたのですが、あれ法蔵の時に人ってそもそも存在していたの?ってふと思いませんか。私は思いました。今でもよくわかりません。

どう考えればいいのだろうか。キーワードは「久遠実成」と「兆載永劫」

「久遠実成(くおんじつじょう)」も「兆載永劫(ちょうさいようごう)」も難しい言葉です。

久遠実成とは浄土三部経の経典にはない言葉ですが、その他の経典には久遠実成の阿弥陀仏として説かれています。

久遠とは久遠劫のことで、久遠実成とは遠い遠い永遠とも言えるはるか昔に仏として浄土建立の誓願が成就したことを意味します。

兆載永劫は無量寿経に出てきます。「不可思議 兆載永劫 積植菩薩 無量徳行」

兆載永劫は時間の単位である兆と載を、とてつもなく長い時間を表す永と劫を合せた言葉です。

つまり人では考えが及ばないような途方もない時間の長さを表しています。

その兆載永劫もの間、菩薩として無量(量ることのできない)の徳行を積んでいったのです。

すると先ほどの時間の説明とは少し違った景色が見えてきませんか。

浄土建立を思惟(菩薩) 五劫 兆載永劫
浄土往生の誓願成就(仏) 十劫 久遠実成

五劫や十劫では私たちが認識しやすい数字の単位、「五」・「十」で示しているため、私たち人間は時間的な長さの比較や前後関係を考えようとしますが、重要なのはそこではないということです。

法蔵菩薩が自力の力では浄土に生まれることができない人のためにどこよりも優れた浄土を作るのには、途方もない時間を要した。

それはあえて五劫と表現したが、兆載永劫という無限のような思惟・修行をされた。

また阿弥陀仏は十劫を前に成仏したとされるが、久遠実成とされ久遠劫のはるか昔から仏として成就しているのである。

何を言っているかわからんという人へ。

え、つまり上の説明だと。

  • 菩薩が修行したのは五劫だけど兆載永劫ってこと
  • 仏になったのは十劫前だけど久遠劫ってこと。
  • テキトーに言葉を変えただけじゃない。

そんな風に思われる人もいるでしょう。

少し話が変わりますが、仏教とは何でしょうか。仏の教えですね。

仏の教えとは仏の法(仏法)のことです。

仏の法とは何でしょうか。変わることのない真理のことです。

例えば仏教が説いていることは、因果の道理がありますね。

これは人が存在しようとしまいが常に変わることの真実です。

阿弥陀の願い・法も同じことです。

一見すると、阿弥陀仏が浄土建立の誓願を成就したから、阿弥陀仏の法によりあらゆる人が救われるように感じる人もいるかもしれませんが、正しくは法というのは常に変わることなく常にあり続けるものです。

ですので阿弥陀仏が十劫前に成仏したとはあえて表現したが、阿弥陀が仏になるにかかわらず阿弥陀の法は常に変わることのない法なのです。

五劫であろうと十劫であろうと、兆載永劫・久遠劫と表現しようとも、仏の法とは始まりや終わりが存在しないのです。

さいごに。私なりの受け取り方。

私なりの現在のとらえ方は、兆載永劫や久遠劫で阿弥陀仏の浄土建立のいわれを説いても人間としての理解できる範囲では到底想像のつかない時間の長さであり、無量寿経や阿弥陀経では人間の知識の中で理解できるレベルとしてあえて五や十といった具体的な数字を用いたのではないだろうか。

いわば、真実へ導くための方便のように五劫や十劫を使われたのではないだろうか。

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