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傅大士はどんな人物なのか.#267

第267回目のラジオ配信。「傅大士(ふだいし)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

傅大士三尊()
円龍寺に安置されている傅大士三尊(左から、普建・傅翕・普成)

かっけいの円龍寺ラジオ

これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。

自坊円龍寺には、本堂の横に2階建ての建物があります。

お骨をお預かりしたり、法事やお葬式ができるお堂です。

このお堂には傅大士三尊と名づけられた像が安置されています。この傅大士の像を安置しているお寺は少なく、見慣れない像があるなあ、この像はなぜあるのかなあと不思議に思われる人もいるでしょう。

今回は、傅大士像についてのお話です。

さてこの傅大士といわれる方は、今からおよそ1500年前の中国の人です。

三国時代の終わりごろ、斉の時代に生まれ、梁の時代に活躍しました。

日本ではそれほど有名な人物ではないでしょうが、中国では達磨大師に並ぶほど有名な方とされています。

時代背景として、国が新しくできては滅びる時代であり、道教や儒教が浸透し、国家儀礼もそれで行われてきました。一方で、梁の武帝は仏教に大きく力をいれていました。

それでは、これから傅大士という方がどんな人なのか、なぜ私のお寺に安置されているのか、お話します。

この傅大士像を見ると、日本のお寺にしては、異質な感じがしますよね。

着ているものは派手な色をしていますし、先の曲がった変なくつもあります。それでいて、頭には冠のようなものをかぶっています。左右には少し笑っているような顔と驚いたような顔をした小さな像もあります。

この傅大士さんは、仏さまでも神様でもありません。それでいて、お坊さんでもないんですね。

この方は在家の仏教者です。

正確に言えば、双林寺というお寺に住んだので、お坊さんといえるかもしれませんが、この方自身は在家の生まれであり、16歳で結婚し子供もいます。

苗字が傅で名前が翕、16歳のときに結婚し、二人の息子普成・普建を授かります。

農民で、畑や釣りをしながら生活していました。

傅大士さんには面白いエピソードがあります。

釣りをしたときに、釣った魚をかごに入れ、水に沈めていたそうです。

するともちろん魚は逃げますよね。

傅大士さんかごに残った魚のみをいただいたそうです。

それを見た周りの人は彼を笑い、愚かな人だといったそうです。

話しは戻りますがこの方の人生をざっと紹介しますね。

傅大士さんの人生の転機は24歳のころです。

24歳のときに、達磨大師にであいました。

インドから大乗仏教の教えを伝えに来た達磨大師にあい、仏教の教えに出あいます。

しかし出家はしていません。

家をもち、昼は畑や釣り、夜に仏教を学ぶといった生活をしていました。

しだいに人々が傅大士さんの周りに集まるようになってきます。仏教の教えを広く学び、そして人々に仏の教えを説いていたからです。

傅大士さんのいたところは、都から離れたへんぴな所でしたが、やがてその名声は都まで届きます。

時代は梁の武帝が国を治めていました。

当時の中国は儒教や道教が国家の中心的な宗教でしたが、武帝は仏教に対して寛容的でした。

各地にお寺を建てたり、仏教経典の訳などもしています。

傅大士は534年に、はじめて都に行き、仏教経典の講義をします。

達磨大師が中国の禅宗に大きく活躍したように、傅大士さんも禅を説き、多くの人びとを仏教徒にして、中国の維摩禅の開祖となりました。

傅大士さんはそれ以降、何度か都に行き、皇帝に会い、仏の教えを説くことをします。

540年に皇帝から命令で、お寺を建てることになります。これが傅大士さんがいたところで、二つの木があったことから双林寺となったそうです。

このお寺には大きな塔があり、膨大な量のお経文が納められていたそうです。

傅大士さんは人々に対して仏教の教えを説くだけでなく、自身も農民と同じ暮らしをしていたとされます。またたくさんの書物も書き残されます。昼は畑、夜は仏教と。

世の中は三国時代の終わりで、戦火や災害が広がっていました。傅大士さんは自身の持っていたお金や食べ物を人々に分け与えていたため、貧困の生活だったとされます。

569年に傅大士さんは亡くなりました。

亡くなったときは陳の時代になっており、当時の宣帝は傅大士さんの碑文を残しました。

これがざっとした傅大士さんの人生です。

さてそれでなぜ、この方の像が私のお寺に安置されているのでしょうか?

それはこの方が転輪の経蔵の考案者だったからです。

簡単に言えば、回転式の本棚です。

この方は勤勉な方で、膨大な量の仏教経典を学んでいました。

それまではお経文は本棚に納められていました。今もそうですよね。

しかし納めているお経の本が膨大で、一か所だけに置くと非常に読みづらく、それならば必要な本が目の前に来るようにと考えたのが、回転式のお経の保管棚です。

のちの時代では、お経が読めない人でも、これを回すことで、お経を読んだのと同じ功徳があると考えるようになりました。

傅大士さんは回転式のお経の本棚の考案者として知られています。

お経を広めるのに大きく役立てられたことから、お経を納めるお堂、経堂・経蔵のあるお寺に、傅大士さんが安置されることがあります。

自坊円龍寺にはかつて経蔵があり、そこに安置されていた傅大士さんの像が今もあるわけです。

さて次に気になるのはその見た目です。

変な服装をしていますよね。

椅子は細いですが、質素すぎることもなく品があります。腰かける所は繧繝縁のような美しい仕上げです。

それで頭には道教の帽子をして、足下には孔子の儒教の靴があり、衣服は僧侶の袈裟をかけています。

奇妙ですよね。

これは梁の武帝に教えを説くときにした姿だとされます。

それまでの中国は道教や儒教が国中に広がっていました。しかし梁の武帝は仏教に傾倒しすぎていました。

皇帝が傅大士さんに尋ねます。

あなたはお坊さんかと聞くと頭を指さし、道教かと聞くと靴を指さし、儒教かと聞くと衣を指さしたそうです。

傅大士さんは三つの教えを融和し、どれかを差別するべきではないということをその姿をもって、伝えていました。

傅大士さんの奇抜な姿は、国を治める皇帝に対しての説法の様子を表しています。

さてそれで最後に不思議なポイント、傅大士さんの左右に立つ、ちょっと笑顔で、ちょっと驚いた顔の像についてです。

この二つの像は傅大士さんのお子さんで、普成と普建さんで、顔だちもどことなく子供っぽいですよね。

詳しいことはわからないですが、私はこう聞いています。

これは、傅大士さんが仏教にであう頃のお話です。

あるとき、水面に光り輝いていた傅大士さんがいたことに息子が気がつきます。

それを見た息子は水面を指を指し笑い、またもう一人の子は驚いたということです。

これは傅大士さんが、仏さまのように智慧に明るい人になること、仏の教えを広めるような人になることを表すエピソードのようです。

水面にうつる光り輝くお父さんの様子を見て指さし笑っているのが普建で、両手を広げて驚いているのが普成らしいです。

仏像らしくはないですが、この特徴的な様子から、笑い仏とも言われているようです。

ちなみに自坊円龍寺では傅大士三尊という名で安置されています。

傅大士さんを安置しているお寺はあまりないと思います。経堂・経蔵があったお寺にはあるかもしれません。

お坊さんのようであり、在家の仏教者でした。

なかなかお目にかかる機会はないと思います。円龍寺にお参りに来られたら、ぜひご覧になってくださいませ。

傅大士さんは世俗的な生き方をしながら、仏教に深く帰依していました。

円龍寺では『朝な朝な 仏とともに起き 夕な夕な 仏をいだきて臥す』の傅大士さんの言葉を2013年の法語にさせていただきました。

傅大士の人物像
  • 傅大士の他、東陽大士・双林大士・善慧大士などの尊称もある
  • 497年5月8日に生まれ、569年4月24日に亡くなる
  • 中国の維摩禅の祖師とされる
  • 中国の梁の時代(502~557)に活躍し梁代三大士の一人に数えられる
  • 姓が傅(ふ)、名は翕(きゅう)、字は玄風(げんふう)
  • 自身は僧侶ではなく、在家者として仏教を実践した
  • 16歳で劉妙光と結婚し、普建と普成の二人の子を授かる
  • 24歳のころ、インドから来た達磨大師に会い、仏教の教えに出あう
  • 昼は畑で働き、夜に仏道を学んだ
  • 人びとに仏の教えを広め、しだいに名声が広まる
  • 534年ごろ、初めて都に行き梁の武帝に会う
  • 540年に梁武帝の勅令により双林寺が建てられた
  • 経典の閲覧のために輪蔵(大きな回転式本棚)を考案した
かっけい
かっけい

ここで紹介した傅大士の人物像はほんの一部です

より詳しくは、以下のリンク先を参考にして下さい

どれも中国語のウェブサイトで読みにくいですが、かなり詳しいです

この像の名前

自坊円龍寺では「傅大士三尊(ふだいしさんぞん)」という名称で、この像を安置しています。京都の本願寺の経蔵(転輪蔵)のと同じ表現です。

他、京都の清凉寺のように「傅大士父子像」や、京都の大報恩寺のように「傅大士坐像および二童子立像(傅大士及二童子像)」のこともあります。

これら三つの像はそろって表現されることもあれば、単に「傅大士像」とのみ表現されることもあります。

一方で、仏像ではないですが俗に「笑い仏」と表現されることもあるようです。左右に立つ傅大士さんのお子さんの表情からそんな名前がついたのだと思います。

円龍寺では本堂横のお堂(偲朋堂)に傅大士三尊が安置されています。

現在はお骨を預かったり法事や葬儀をする建物となっていますが、かつては同じ場所に経蔵がありました。この傅大士三尊はそこにまつられていました。

2013年に新しいお堂が建ち、その年に「朝な朝な 仏とともに起き 夕な夕な 仏をいだきて臥す」の傅大士の言葉を一年の法語にしました。

リンク先に円龍寺の過去の法語を紹介しています。『円龍寺の柱掛け法語

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