こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
最近ではお骨・お墓・両親・家を取り巻く環境が大きく変化しつつあります。
今回のテーマはお墓についてです。
お坊さんをしていますと感じることがあります。
- お墓はこれからの時代には受け入れられにくい
- お墓に代わる新しい納骨や埋骨のかたちが必要
お墓について思うところを書いていきます。
無縁墓が当たり前の状況。
現在、無縁のお墓はかなりの数があります。
自坊のお寺でも大正以前のお墓で無縁となった墓はそれなりにあります。
無縁墓の割合はかなり多くなっている。
香川県の高松市が1990年度に市内11か所の市営墓地を調査したところ、およそ2万4500基中、3割にあたるおよそ7500基が無縁のお墓となっていたようである。
また熊本地震で被害にあった人吉市でも2013年の調査で、市内の霊園およそ1万5000基中、4割に当たる6500基近くが無縁のお墓になっています。
実際お坊さん仲間の話を聞きますと、熊本の方で倒壊したお墓の半数近くが所有者不明であり、手出しができないと嘆かれていました。
無縁墓はどういった状況のお墓を意味するのだろうか。
墓とは一応、財産として取り扱われます。
つまり墓石・墳墓は代々相続されていかなければならないのです。
また最高裁判所は無縁墓について「葬られた死者を弔うべき縁故者がいなくなった墳墓をいう」(1963年2月22日最高裁判所第三小法廷)と規定しました。
簡単に言うと、無縁墓とは定期的にお参りする人がいなくなった墓の事です。
別に故人の身内でなくても、縁故者すなわち死者に対して縁やゆかりのある人でもいいのでも構いません。誰かがお参りを続けていれば無縁の墓とはされません。
お参りの人がいない墓は荒れている。
無縁墓とはお参りの人がいない墓のことです。
家と同じで墓も人がいなくなると急速に傷みが激しくなります。
例えば雑草がどんどん生えてきます。さらには土埃などにより部分的に土が堆積しますし汚れも目立ってきます。
そのような状況が続けば蜂が墓石の隙間から中に入り巣を作ることもあります。地盤が沈むことや地震によって墓にヒビが入ったり倒壊することもあるからね。
お参りの人のいないお墓はどんどん荒廃していき、他の墓地利用者の迷惑にもなっていきます。また墓地の管理者にも。
墓じまい・墓は不要の考えがごく普通の事になってきています。
墓が無縁になっていくのには色々な理由がありますが、現代では「墓を処分したい」・「墓はいらない」という考えが急速に広まっているように感じます。
ですから最近できた新しい言葉に「墓じまい」があるのでしょう。(昔からの表現は「廃墓(はいぼ)」です。)
強く墓は不要と考える人もいますが、もちろん仕方なくお墓を閉じようと決心する人もいます。
実際お坊さんの私には「墓には入れたいけども、将来が不安だからお墓を廃止にしたい」と言われる人もいます。先祖代々の墓に同じように弔いたいけどもお参りするのが難しくなり粗末な扱いにならないかと心配しているのです。
そのような家はお墓を泣く泣く廃止にしたり、できるかぎり家族のお墓で弔うが分骨してお寺に預け、お寺でも弔う形にしている人もいます。
家の意識が強く、家族のつながり・先祖とのつながりを大切にしてきている人にとって、その象徴となるお墓が無くなるのは辛いところがあるのでしょう。
しかし現実には定期的にお墓にお参りするのが難しくなり、お墓はこれからの時代には合いにくいのかもしれません。
墓に代わる新しい納骨・埋骨の形は。
お坊さんにとってお墓で弔うことができるのならば、それが一番の形だと思います。しかし現実にはお墓を維持ししていくのが難しいというのもよく知っています。
墓じまい・お墓を廃止にしている人もご門徒の中でも少しずつ増えてきています。
墓を処分した後にはお骨が残ります。お墓がない人が次に悩むのがお骨をどうするかです。
そもそもお墓に埋骨していたのは遺骨が粗末にならないようにするためであり、残されたものが偲ぶための象徴(モニュメント)であるからです。
最近テレビでは「樹木葬」・「散骨」・「宇宙葬」など様々なお骨のあり方を報道しています。
どのような形をとるのかは納骨者の自由ですが、死者を弔い死者とのご縁を大切にするのであれば、お坊さんの私はしかるべき場所での納骨を勧めます。
「しかるべき場所」というのが曖昧な言葉に感じるかもしれませんが、しかるべき場所とは先ほど説明しました「遺骨が粗末にならない・残された人が偲ぶ」ことができる場所の事です。
例えば樹木葬とは自然葬の一種と考えられており戦後まもなく徐々にされている人も増えていますが、樹にも寿命があります。樹も病気になり寿命になりやがて枯れていきます。死者を偲ぶ象徴としては不確かな記念場所です。また年間の維持管理費もそれなりに必要です。
散骨・宇宙葬は自然に帰したい・一体となりたいと故人とその家族の希望を反映しているようですが、実際には散骨は法律が追いついておらずグレーな部分が多いですし墓地埋葬法には「焼骨の埋蔵は、墓地以外区域にはしてはならない」と明記されているように、一般の人が気軽に散骨をするわけにはいかないのです。また散骨をするとその瞬間はその場の人は満足しても、後の者にとってはそこに集い、報告し、感謝するというまさに心の思いを表す場所がなくなる恐れがあります。
しかるべき場所とは信頼のおける寺院や納骨堂に納めることだと私は考えます。
一番は檀那寺といった昔からお付き合いのあるお寺がいいでしょう。民間や宗派問わずに預かる寺院の納骨施設は私は勧められません。
納骨堂のある寺院は墓地埋葬法に従って、他人(ご門徒)の委託をうけて焼骨を収蔵するために納骨堂として都道府県知事の許可を受けています。
檀那寺と檀家の関係のあるお寺では決して故人の遺骨が粗末にならないように預かり続けますし、読経も欠かしません。遺族や縁・ゆかりのあるの人が参ってこられるようにいつまでも維持し、共に受け継がれる場所です。
無縁墓は墓地の所有者にとっても困る。
自坊のお寺ではお墓を廃止(墓じまい)にして納骨堂にお骨を移される人が増えてきています。
墓を無縁の状態にはするべきではありません。
それは墓に埋骨されている先祖が粗末な扱いになっているということだけでなく、周辺の墓地利用者への迷惑、また墓地の管理者にも迷惑・負担がかかるからです。
しばしば「お墓を買う」という表現がつかわれるのですが、正しくは「墓石を立てる場所・墓地として利用する場所として土地を借りている」と表現するべきでしょう。
墓地としての許可は自治体の許可を得なければなりません。その許可を取得しているのが霊園や納骨堂と言われる埋骨・納骨施設です。
お骨を納める墓石をこの施設から場所の権利を借りているんですね。いわばマンションやアパートのようなイメージです。
お墓を廃止にして撤去し更地にするというのは、マンションから引っ越しする時に部屋を借りた時の状態に復元するのと同じ考えです。
土地の権利を買い、墓石を立てた後では、墓地施設の所有者は手出しができなくなります。
ですので地震で墓石が倒れようにも雑草が生い茂ても、その対応は土地の権利を買い墓石を立てた人がしなくてはならないのです。
墓地の所有者にとっては貸した土地にある墓が無縁の状態であっても手出しができないので、悩みの種になってしまいます。
もちろん手段を尽くせば撤去することはできるのですが、それにかかった費用は墓地の所有者の負担になるので、現状では借りた人がしかるべき対応をしてくれることを望んでいるのです。
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さいごに。墓参りは今後どのように変化するだろうか。
私は田舎のお坊さんなので、大阪や東京のような都会のお骨事情・お墓事情については疎いところがあります。
しかし聞くところによる墓地を維持するのが難しい。またお墓を持とうにも墓石を立てる墓地が手に入らないとう声も聞きます。
またニュースではお骨が駅やゴミ捨て場に捨てられることも聞きます。(遺骨遺棄罪になるので絶対にしないでください)
仏教でお墓というのはお釈迦様が亡くなられた後、仏弟子たちが釈迦の遺骨を拾いインド各地に運び仏舎利を立てたのが始まりとされます。やはり先にお浄土に往かれた故人を偲び、仏縁をいただくためです。
日本でも仏教伝来後、お墓が建立されるようになりました。(仏教伝来前も古墳はありますよ)
一般庶民がお墓を持つようになっていったのは江戸時代ころからとされます。
お墓にお参りするのは、故人を偲ぶこと・供養するという意味合いも強いでしょうが、形あるものとして後に残されていった人たちが集い感謝していくご縁となる場所でもあります。
墓という先人たちを偲ぶモニュメントは今後すたれていくでしょう。
しかし私たち人間が最後に残せるのはお骨であり、お骨をもって後の人に伝えられることもあるでしょう。
お参りに形すがたは時代とともに変化するでしょう。しかしなぜ私たちが墓参りつづけているのかを考えると散骨や樹木葬といった形はちょっとまずいように感じます。
墓はいらない・墓は不要のイメージが最近の流行りであり安易に墓じまいといわれますが、今の自分のことだけでなく、後のものにとって何が有難いかというのも考えてみてはどうでしょうか。