浄土真宗とは。宗祖親鸞ゆかりの10宗派

僧侶のかっけいです。

私は真宗興正派という浄土真宗宗派のお坊さんですが、浄土真宗と言えば「本願寺派」や「西本願寺・東本願寺」をイメージされる人が多く、それ以外の宗派を知らない人も多いと思います。

  • 浄土真宗って何なの?
  • 誰が浄土真宗を開いたの?
  • 宗派はどれくらいあって、本山は何?
  • お経は何?般若心経を読まないって本当なの?

浄土真宗のこんな疑問に答えられるように紹介していきます。

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浄土真宗とは何か?

浄土真宗は阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生する教えのこと。

もう少し正確に言えば、「阿弥陀仏の本願を信じて念仏する人はだれでも、阿弥陀仏のはたらきによって、阿弥陀仏のお浄土に往生できる教え」です。

浄土真宗とは「親鸞聖人を宗祖(開祖)と仰ぎ、浄土の真実を人生や生活の宗(中心)とする同朋教団」のこと。

浄土真宗のことを「真宗」とも言います。意味は同じです

宗旨浄土真宗
本尊阿弥陀如来
南無阿弥陀仏
お経仏説無量寿経
仏説観無量寿経
仏説阿弥陀経
(正信偈)
宗祖親鸞(1173~1262)
宗祖の主著教行信証
主な宗派真宗十派(真宗教団連合)

宗祖親鸞聖人の生涯(簡易)

浄土真宗の宗祖は、親鸞(しんらん)という鎌倉時代のお坊さんです。師の法然上人の「専修念仏」の教えを継承して、「本願他力の念仏」を説きました。

親鸞の生涯
  • 1173年:京都の日野の里(現在の京都市伏見区)にて、日野有範の長男として誕生
  • 1181年:天台宗慈円(じえん)のもとで出家得度し、以後20年間、比叡山延暦寺で修行
  • 1201年:京都の六角堂に100日籠り聖徳太子(観音菩薩)の夢告にしたがい、浄土宗の宗祖法然上人の門下に入る
  • 1205年:法然のもとで専修念仏の理解を深め、法然の著書『選択本願念仏集』の書写を許される
  • 1207年:朝廷は念仏禁止の決定をし、法然は土佐国へ、親鸞は越後国(新潟県)への流罪
  • 1208年:流罪の道中、越前の上野ヶ原や山元の庄などで弥陀本願の説法をする⇒誠照寺派や山元派のはじまり
  • 1211年:流罪が赦免される
  • 1212年:いったん帰洛し、京都山科に草庵を建てた⇒興正派や佛光寺派のはじまり
  • 1214年:関東に入り上野国(群馬県)の佐貫にいたとされる。その後、常陸国笠間郡(現在の茨城県笠間市稲田町)の稲田草庵に移り住み、関東布教を行う
  • 1224年:専修念仏の教えを体系的にまとめた『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』がおおよそ完成⇒浄土真宗の「立教開宗」の年
  • 1226年:栃木高田の地に専修寺を創建⇒高田派のはじまり
  • 1235年:関東から京都に帰洛の途中、滋賀木部の地に立ち寄り浄土真宗の教えを説く⇒木辺派のはじまり
  • 1248年:「浄土和讃」や「高僧和讃」をつくる
  • 1262年:11月28日の正午ごろ京都にて亡くなる。29日に京都東山の鳥辺野で火葬。30日に拾骨し大谷(鳥辺野の北)に埋葬
  • 1272年:大谷の西、吉水の北の地に六角の廟堂を建て、親鸞の影像を安置し遺骨を移す⇒大谷派や本願寺派のはじまり
  • 1876年:11月28日に明治天皇より「見真」の大師号を授かる

親鸞聖人のミニ知識

生まれた日と死んだ日

親鸞聖人は1173年4月1日生まれ・1262年11月28日命日となっていますが、本願寺派と高田派は新暦に置き換えて「1173年5月21日・1263年1月16日」としています。

「生まれた日」は不明確であり、江戸時代の高田派の僧侶が書いた『高田開山親鸞聖人正統伝』の4月1日が現在定着しています。

公家藤原の流れをくむ親鸞

親鸞聖人の父は藤原氏の流れをくむ「日野有範(ありのり)」。

明日ありと思う心の仇桜

9歳の親鸞は、出家得度のために、後に天台宗座主になった青蓮院の慈円の元に行きました。しかし到着したのが遅れてしまい、剃髪しようは明日にしようと勧められたところ『明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』を詠んだ伝説があります。

自分のいのちが明日には散るかもしれない桜の花にたとえて「明日ではなく今を大事に生きたい」とのメッセージを込めています。

肉食妻帯をした

今でこそ仏教お坊さんは肉を食べ結婚生活をしますが、親鸞は僧侶でありながらおおやけに肉食妻帯をしました。阿弥陀仏のあらゆるすべての人を救うという本願の教えを、半僧半俗のままで実践したものとされます。

ただ肉食妻帯は日本初だったかは不明で、師の法然の元では老若男女を問わず、門弟の中には肉食妻帯をしていたものもいたそうです。

親鸞はいなかった説

親鸞は阿弥陀仏の念仏の教え「浄土真宗」に関する書物は多く書きましたが、自身の自伝は残しませんでした。そのため長くその存在の有無が推測されました。

しかし1921年に本願寺の蔵から妻の恵信尼(えしんに)の直筆の手紙が見つかり、親鸞の人となりや存在が明らかになりました。

親鸞の教えを伝える10の宗派と本山

現在日本には浄土真宗のお寺が2万以上あり、日蓮宗や真言宗や曹洞宗よりも多い日本最大の仏教教団になっています。

国に届け出のある浄土真宗宗派は約20ありますが、その中で主な10派が真宗十派の連合体を組んでいます。

真宗十派とは

真宗十派は親鸞を宗祖と仰ぎ、その阿弥陀仏をたよりとした浄土真宗を信奉する教団。親鸞の子孫や弟子らにはじまる10の宗派であり、1969年に真宗教団連合を結成した。

総本山はない

浄土真宗の主要な10派の本山はそれぞれが親鸞を宗祖(開祖・開山)とし、親鸞の足跡がゆかりとなっている寺です。そのため「総ての本山のトップ」や「一番優れていて統括する」ような総本山の寺はありません。

規模の小さな真宗宗派、規模の大きな真宗宗派はありますが、どの派も同じく阿弥陀仏の教えを伝える同朋教団です。

真宗十派
  • 浄土真宗本願寺派:本願寺(西本願寺)
  • 真宗大谷派:真宗本廟(東本願寺)
  • 真宗高田派:本山専修寺
  • 真宗興正派:本山興正寺
  • 真宗佛光寺派:本山佛光寺
  • 真宗木辺派:本山錦織寺
  • 真宗出雲路派:本山毫摂寺
  • 真宗誠照寺派:本山誠照寺
  • 真宗讃門徒派:本山専照寺
  • 真宗山元派:本山證誠寺

本願寺以外は「真宗○○派」で、本願寺派のみ「浄土真宗」となっていますが、これは国に届け出をする時に本願寺派だけ「浄土真宗」にしているからです。

浄土真宗の宗派と本山の一覧表

宗派本山別称場所寺院数はじまり
本願寺派本願寺
ほんがんじ
西本願寺
お西
京都市下京区約100001272年
大谷派真宗本廟
しんしゅうほんびょう
東本願寺
お東
京都市下京区約850001272年
高田派専修寺
せんじゅじ
高田本山三重県津市600強1225年
興正派興正寺
こうしょうじ
京都市下京区450強1212年
佛光寺派佛光寺
ぶっこうじ
京都市下京区400弱1212年
木辺派錦織寺
きんしょくじ
滋賀県野洲市200弱1235年
出雲路派毫攝寺
ごうしょうじ
五分市本山福井県越前市50強1233年
誠照寺派誠照寺
じょうしょうじ
鯖江本山福井県鯖江市50弱1208年
讃門徒派専照寺
せんしょうじ
中野本山福井県福井市40弱1290年
山元派證誠寺
しょうじょうじ
横越本山福井県鯖江市約201208年
真宗十派

真宗讃門徒派はこれまで「真宗三門徒派」でしたが、2020年11月29日の本山専照寺御正忌報恩講令和2年厳修の後に「真宗讃門徒派」に変更されます。

続けて真宗の10派がどのような流れで形成されたのかを大まかに紹介します。

共通点は「宗祖親鸞ゆかりの寺」だということです

浄土真宗本願寺派:本山本願寺

宗祖親鸞聖人は1262年に京都大谷の地に埋葬された。1272年に京都大谷の西・吉水の北の地(現在の浄土宗知恩院・円山公園付近)に六角の廟堂を建て、親鸞の影像を安置し遺骨を移したのが本願寺のはじまり。

本願寺の歴代上人は廟堂の留守職であり、室町時代までは佛光寺派や高田派などよりも小さな真宗教団だったが、第8代蓮如上人(れんにょ)の頃より本願寺は急速に拡大しました。

本願寺は寺を各地に移したが、1591年第11代顕如上人(けんにょ)の時に豊臣秀吉から京都下京区七条堀川(現在地)を寄進されて大阪から移転します。大坂本願寺の地には豊臣秀吉が大阪城を築き、現在は残っていません。

現在の末寺数は10000か寺ほどと日本最大の仏教宗派になっており、浄土真宗といえば京都の「西本願寺・お西さん」をイメージする人も多いと思います。また本願寺のお堂の多く(阿弥陀堂や御影堂など)は国宝に指定され、また世界遺産にも登録されていることから、観光客に人気の寺でもあります。

西本願寺は通称で、本願寺(ほんがんじ)が正式。

公式サイト『浄土真宗本願寺派(西本願寺)

真宗大谷派:本山真宗本廟

1272年に京都東山(大谷の西・吉水の北)の地に六角の廟堂(大谷廟堂)を建て、宗祖親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移したのがはじまり。その後、本願寺(廟堂)は大阪へ移転します。

第11代顕如のころに、織田信長との石山合戦に敗れ大阪を退去することとなります。この際、顕如の長男教如上人(きょうにょ)は顕如と意見が対立しました。1591年京都堀川七条に本願寺(現在の本願寺派)は移転し、長男教如が本願寺を継ぐが豊臣秀吉より隠居させられ、三男准如上人(じゅんにょ)が本願寺を継ぐことになります。

教如は1602年に本願寺と対となる場所の京都市下京区烏丸通七条(現在地)を徳川家康から寄進され、ここから真宗大谷派の本山である「東本願寺・真宗本廟」が誕生しました。

東本願寺は通称で、真宗本廟(しんしゅうほんびょう)が正式名称。

現在は京都駅を降りて左に本願寺派本願寺(西本願寺)があり、右に大谷派真宗本廟(東本願寺)があり、ともに京都を代表する寺となっています。特に宗祖親鸞をおまつりする御影堂は、南北76m・東西58m・高さ38mの世界最大級の木造建築として知られます。

公式サイト『東本願寺

真宗高田派:本山専修寺

宗祖親鸞聖人が1226年に関東布教の途中、栃木県高田(たかだ)に一宇を建立し、長野県善光寺の一光三尊阿弥陀如来を模造した本尊をおまつりしたのが、専修念仏の根本道場「本寺専修寺(ほんじせんじゅじ)」のはじまり。

京都に戻った親鸞の後は、真仏上人(しんぶつ)や顕智上人(けんち)といった弟子たちが本寺専修寺を継ぎました。

高田派では親鸞が唯一建立した寺とし、専修念仏の根本道場としています。

15世紀半ば第10世真慧上人(しんね)の頃に、三重県一身田に伊勢国内・西国布教の中心寺院として専修寺(無量寿寺)が建てられます。その後、歴代上人が一身田に居住するようになり、ここが「本山専修寺(ほんざんせんじゅじ)」として定着していきます。

真宗高田派は「真宗の法灯集団」や「法脈」の教団ともいい、親鸞が開いた浄土真宗の教えを正しく受け継ごうとする宗派であり、親鸞ゆかりの真筆を東西本願寺(大谷派や本願寺派)よりも数多く持ちます。そのため、弟子の聞き書きである「歎異抄」はそれほど重視していません。

公式サイト『真宗高田派本山専修寺

真宗興正派:本山興正寺

越後流罪を赦免された宗祖親鸞聖人が一時京都に戻り、1212年に京都の山科に一宇を建てたのがはじまり。順徳天皇より「興隆正法」の勅願を受け、略して「興正寺(こうしょうじ)」と名のります。その後「佛光寺」とも名のるようにもなります。

1482年に第14世の蓮教は本願寺の蓮如と合流し、興正寺と佛光寺は分かれ、興正寺と本願寺は親交を深めた。

1591年豊臣秀吉の命により、本願寺とともに寺を京都七条堀川(現在地)に移転した。本願寺を江戸時代は本願寺扱いを受けていたが、1876年に別派独立した。

現在の真宗興正派は末寺数450余りと浄土真宗では4番目の規模ですが、江戸時代に幕府へ提出した「祖門旧事記」の記録控えによると2117か寺の末寺があったとされます。明治の別派の時に多くの寺が本願寺に吸収されました。現在は香川に200か寺ほどあり、香川の浄土真宗寺院の半分が真宗興正派です。

公式サイト『本山興正寺

興正派僧侶の私が興正派について、下の記事で紹介しました

江戸時代の初め京都に移転のとき、本願寺派を顕如の三男・大谷派を長男・興正派を次男が継ぎ、また本願寺と寺を並べて構えてたことから、本願寺派の一部と誤解するかもしれませんが、1212年にはじまる浄土真宗の1派です。

真宗佛光寺派:本山佛光寺

流罪を赦免された宗祖親鸞聖人が、1212年に京都に一時帰り山科に草庵を結んだのが、佛光寺のはじまり。はじめは「興正寺」と名のっていたが、1320年に寺を京都の渋谷に移し、第7世了源上人(りょうげん)の時代、後醍醐天皇の「阿弥陀佛光寺」の勅額より「佛光寺(ぶっこうじ)」とも名のるようになりました。

一般的な歴史認識では親鸞は越後から直接関東に向かったが、真宗興正派や真宗佛光寺派の寺伝では一時京都に帰ってから関東に向かったとしています。

佛光寺は室町時代まで最大規模の真宗教団でしたが、興正寺の分かれなどにより佛光寺は次第に衰え、本願寺が台頭するようになります。1586年には豊臣秀吉の命により、寺を京都五条坊門(現在地)に移転しました。

女性差別の激しかった南北朝時代に佛光寺派は日本の仏教宗派において、歴史上初めて、女性の門主(宗派宗門の代表)「了明尼公(りょうみょうにこう)」を輩出しました。佛光寺ではこれまでに3度女性門主が誕生。

公式サイト『真宗佛光寺派 本山佛光寺

真宗木辺派:本山錦織寺

木辺派(きべは)の歴史は真宗十派で最も古い。

858年、比叡山延暦寺の第3代座主慈覚大師円仁(えんにん)の指示で滋賀県木部の地にお堂が建て、毘沙門天王像が安置される。この毘沙門天王像は天台宗開祖の最澄(さいちょう)が比叡山をひらく際に、比叡山東塔北谷にあった霊木から作ったと伝えられる。お堂は天安の年号から「天安堂」と名づけられた。

1235年に関東布教から京都に帰洛途中の宗祖親鸞聖人が、この天安堂に立ち寄り阿弥陀如来の尊像を安置し、浄土真宗の教えを説いたのが木辺派のはじまり。霊木の辺の村から「木部」と呼ばれるようになり、現在は「木辺」となっている。

木辺派の寺伝では親鸞が主著『教行信証(顕浄土教行証文類)』の最後の二巻をこの地で滞在中に完成し、1238年に妙なる音楽が鳴り、天女が舞い降り蓮の糸で錦を織り阿弥陀如来の仏前にささげたと伝える。その錦を四条天皇に献上したところ「天神護法錦織之寺」の勅額を賜り、それ以来「錦織寺(きんしょくじ)」と号するようになった。

親鸞が錦織寺を去ったあとは、親鸞の弟子の性信・願性・善明・愚咄・慈空らの下総国(茨城県)の横曽根門徒が寺を守り、そこへ親鸞の玄孫存覚上人(ぞんかく)の子の慈観上人(じかん)が寺に入り住職となった。

公式サイト『真宗木辺派本山錦織寺

ミニコラム:越前四箇本山
浄土真宗の真宗10派本山の場所

こうやって見ると、真宗10派の本山の位置は、お互いに近いことが分かるね

福井県(越前)にある浄土真宗の4本山を総称して越前四箇本山(えちぜんしかほんざん)とも言われるよ。

福井県には約1700のお寺があります。

  • 浄土真宗本願寺派が400弱
  • 真宗大谷派が300弱
  • 出雲路派・誠照寺派・讃門徒派・山元派・高田派・興正派・佛光寺派・木辺派などが300弱
  • 曹洞宗が約300
  • 日蓮宗系が200
  • 天台宗・真言宗系が150
  • 浄土宗が約100
  • 臨済宗が約80

福井県の半数以上が浄土真宗、そして本山も4つ。プラス曹洞宗の大本山永平寺もあって、福井県は「仏教王国」とも言われてるそうだよ

さあ、ここからは「越前四箇本山」を紹介します。

真宗出雲路派:本山毫攝寺

1233年、関東から戻った宗祖親鸞聖人が、京都上加茂と下加茂の間の出雲路(現在の京都市左京区あたり)に草庵をつくったのが出雲路派のはじまり。親鸞のひ孫で本願寺3世覚如上人(かくにょ)の高弟である乗専上人(じょうせん)が、出雲路に毫攝寺(ごうしょうじ)を創建したとされます。

室町時代の応仁の乱の兵火で堂宇が焼け、1338年に山元の庄(福井県鯖江市神明町)に移転し、真宗山元派本山證誠寺に身を寄せた。

日野家分流の柳原家より迎えた第12世善照上人(ぜんしょう)は、1596年に福井県越前市清水頭にて伽藍をととのえ毫攝寺を再建し現在に至る。この地には聖徳太子堂があり、豊臣秀吉により除地朱印(年貢を免除された土地)となっていたとされる。

越前市にあった小丸城の城下町五分市(ごぶいち)は毫攝寺の建立によって門前町となり、毫攝寺は「五分市本山」とも呼ばれるようになった。

公式サイト『真宗出雲路派 本山毫摂寺

真宗誠照寺派:本山誠照寺

宗祖親鸞聖人は1207年念仏禁止の令により越後への流罪が決まった。その道中に越前国上野ヶ原(福井県鯖江市)の豪族波多野景之の別荘に滞在し、弥陀本願念仏の要法を説いた。輿車に乗ってきたことから「車の道場」と呼び、誠照寺(じょうしょうじ)の歴史がはじまった。

「車の道場」は親鸞の最初の説法の地、「初転法輪の地」とされる。

その後親鸞は子の道性上人(どうしょう)を送った。道性の子の如覚上人(にょかく)のとき、波多野景之の寄進により現在の地に堂宇を建て、後二条天皇より「真照寺」の勅額を賜った。

越前はもとより加賀(石川南)・能登(石川北)・越後(新潟)・美濃(岐阜)へと念仏の教えが広まり「和讃門徒」と称し、1437年第7代秀応のときに後花園天皇より「誠照寺」の寺号を賜った。

公式サイト『本山誠照寺

真宗讃門徒派:本山専照寺

1290年に宗祖親鸞聖人の法脈を継ぐ如導上人(にょどう)は、仏法興隆のため、福井県福井市大町に一宇を建立し寺号を「専修寺」と称しました。

如導の亡くなった後の大町専修寺から、道性上人が横越に證誠寺(現在の山元派本山)、如覚上人が鯖江に誠照寺(現在の誠照寺派本山)、浄一上人(じょういつ)が中野に専照寺(現在の讃門徒派本山)を建立したのが起源。

これら如導から分かれた誠照寺・證誠寺・専照寺(せんしょうじ)の系統につらなる人たちを指して「三門徒衆」や、親鸞の「三帖和讃」を重視したことから「讃門徒衆」とも呼ばれた。

1724年に福井市みのり(現在の地)に移った。明治には真宗大谷派にも一時属したが、1878年に真宗三門徒派として独立しました。現在は「真宗讃門徒派」となります。

「真宗三門徒派」は 2020年11月29日の本山専照寺御正忌報恩講の後で「真宗讃門徒派」に変更されます。

公式サイトはない

真宗山元派:本山證誠寺

宗祖親鸞聖人が越後への流罪の道中に山元の庄(福井県鯖江市水落町)に立ち寄り、浄土真宗の教えを説いたことがはじまり。

京都に戻った親鸞は山元再訪を望む人々のために、子の善鸞上人(ぜんらん)に自身の御影や真筆の名号などを差し遣わした。その後、善鸞の子の浄如上人(じょうにょ)が京都から親鸞の分骨を奉持して山元の庄に寺を開き、親鸞の遺志を継いでこの地で真宗の教法をひろめた。

1303年、後二条天皇より「山元山護念院證誠寺(しょうじょうじ)」の勅額を授かる。

1475年、第8世道性のころに山元から横越(現在地)に證誠寺を移した。政府の布告により明治には浄土真宗本願寺派に一時統合されたが、1878年に真宗山元派として独立を果たす。

たび重なる焼き討ちや真宗出雲路派との分立騒動などにより、末寺数およそ20か寺の真宗十派最小規模となっている。

公式サイトはない

その他:浄興寺派・東本願寺派

以上の10派が真宗教団連合に属し親鸞を宗祖とする伝統的な浄土真宗宗派だが、浄土真宗には他にも有名な宗派があります。

ここでは「真宗浄興寺派」と「浄土真宗東本願寺派」を紹介します。

真宗浄興寺派:本山浄興寺

流罪を赦免された宗祖親鸞聖人は関東に向かい、常陸笠間郡稲田郷(現在の茨城県笠間市)に稲田草庵を開く。

浄興寺派の寺伝によると、1224年にこの地で主著『教行信証』を完成させた親鸞は、浄土真宗の立宗を喜び、稲田草庵の寺号を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺に改め、真宗浄興寺派がはじまる。浄興寺の名前は「浄土真宗興行寺」を略したもの。

浄興寺は親鸞の頂骨を安置し、東西本願寺や興正寺に親鸞の遺骨を分骨をしています。

現在の本山は新潟県上越市に移転し、およそ10の末寺があります。

公式サイト『浄興寺

流罪した親鸞の詳しい行跡記録がないことから、稲田草庵が浄興寺となったのには否定的な考えもある。現在この稲田草庵の跡地には西念寺(浄土真宗単立)があり、親鸞が京都に帰ったのちの1304年に寺を開創し西念寺と寺号を定めたとしている。

浄土真宗東本願寺派:本山東本願寺

浄土真宗東本願寺派の本山東本願寺は、1961年に真宗大谷派東本願寺(真宗本廟)から分かれた派です。これは真宗大谷派の内部対立からおこった「お東騒動」により、京都の真宗大谷派東本願寺が4つの宗派に分裂したものです。

浄土真宗東本願寺派の本山東本願寺は、1651年に真宗大谷派の教如が東京の神田に江戸御坊光瑞寺を建立したのをがはじまり。その後、京都の東本願寺の別院となった。

1657年には浅草に移転し「浅草本願寺」、1965年には「東京本願寺」と呼ばれた。2001年に現在の名称「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」となりました。

浄土真宗東本願寺派の末寺は300余りあります。

茨城県牛久市の高さ120mの阿弥陀大仏(牛久大仏)は、浄土真宗東本願寺派によって建てられた。

公式サイト『浄土真宗東本願寺派 本山東本願寺

他の仏教宗派との違い

教え:自力より他力

自らにそなわった力で頑張って修行をして善根を積み、浄土往生や仏になるのを目指すことは浄土真宗の教えではありません。

浄土真宗は、阿弥陀仏のすべての衆生を救わずにおれないという本願力(これが「他力」)を信じ、報恩感謝の心とともに南無阿弥陀仏を唱えます。阿弥陀仏の本願力・他力をよりどころとして生きるのが浄土真宗です。

在家仏教

浄土真宗以外の仏教宗派は出家の形をとり、厳しい戒律を守り修行があります。

浄土真宗は絶対他力の教えであり、阿弥陀仏のはたらきによって阿弥陀仏の極楽浄土に生まれ仏とならせていただくので修行がありません。肉食妻帯の人も、僧侶も僧侶でない人も、老若男女問わず、出家・在家にかかわりなく、誰もが救われるのが浄土真宗です。

注意する点は、浄土真宗の仏教教団が世俗化したのではなく、在家生活そのままが仏道だということ。

戒名ではなく法名

戒名も法名も仏教徒としての名前を表す言葉だが、浄土真宗では「法名」、他宗では「戒名」といいます。

戒名は戒律を守り仏道修行する人びとにつけられる名前。

浄土真宗では、あらゆる人を救おうとする阿弥陀仏のはたらきのなかに生かされている私たちがいただく名前を「法名」と言います。

お経:浄土三部経

浄土真宗では、本尊阿弥陀仏の本願や浄土に関する教えが説かれている3つのお経「浄土三部経」を根本経典としています。

  1. 仏説無量寿経
  2. 仏説観無量寿経
  3. 仏説阿弥陀経

浄土真宗の教えはこの浄土三部経に基づきますが、宗祖親鸞が書いた「正信偈」や「和讃」などもお勤めに読みます。

お経:般若心経を読まない

多くの仏教宗派で読まれる般若心経を浄土真宗は読みません。

ただし、浄土真宗は般若心経を勉強すること・読むこと・写経することを禁止していません。般若心経をあえて読む必要がないのが浄土真宗です。

阿弥陀仏の本願力(他力)をたのむことで救われる教えの浄土真宗が、観音菩薩が説く自分の力でさまざまな修行をして、偉大なる智慧を獲得して悟りにいたる自力の教えを、あえてすすめる必要はなかったのです。

作法:数珠はお参りの必需品

数珠は阿弥陀仏を礼拝する時の道具であり、お墓や寺・仏壇にお参りする時に必ず用意します。

他宗では念仏の回数を数えたり煩悩をすり砕く意味として、玉を繰り数えたり音を出したりしますが、浄土真宗では仏を念じるために使います。

浄土真宗では数珠(じゅず)よりも念珠(ねんじゅ)と表現することが多いと思います

作法:焼香の線香はねかす

焼香をするとき、抹香をつまんでそのまま香炉に入れます。他宗のように額の位置で香をいただく動作をしません。

仏様にお香を供えるのが浄土真宗。線香は立てずに折って横にねかせて供えます。

作法:位牌の代わりに過去帳

浄土真宗では亡き人・故人は阿弥陀仏の極楽浄土に往生しています。ですので故人の魂の故人の魂の依代のために位牌を用いることは勧めていません。位牌への魂入れもありません。

ただし故人を偲び仏縁に出あう機とするために、過去帳や法名軸に故人の法名や俗名や没年月日などを記録します。お墓では拝み石(棹石)ではなく、横の法名碑に刻みます。

過去帳や法名軸や法名碑に拝むのではなくて、阿弥陀仏が礼拝の対象です。過去帳や法名軸や法名碑はそのご縁です。

ちなみに香川の浄土真宗では、過去帳に準するものとして繰り出しの位牌もよく使われています。

お参りの空間が広い

浄土真宗は他宗と比べると、本尊阿弥陀仏を安置するお堂では、仏さまをお堂の真ん中より後ろに安置し、参拝者を収容するスペースを広くしています。

これは浄土真宗があらゆる人に開かれた教えであり、仏法を聞くことを大切にしているから。

他宗ではご本尊をお堂の中心に安置し、一般の参拝者のお参りするスペースが狭くなっていたりします。

浄土宗と浄土真宗の違い

平安末期の1052年は末法元年とされ、仏法が衰え世の中が乱れていくと考えられていました。権力者は自身の極楽往生を願うようになり、阿弥陀仏をおまつりする仏堂を盛んに立てるようになります。

特に有名なのが藤原道長・頼通の建立した1053年の平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)です。

末法元年以降、日本では多くの宗派が誕生しました。その中で阿弥陀仏を本尊とする浄土系の宗派が4宗登場します。

名称浄土真宗浄土宗時宗融通念佛宗
宗祖親鸞
1173~1262
法然
1133~1212
一遍
1239~1289
良忍
1073~1132
開宗1224年1175年1274年1117年

ここでは念仏の特徴に絞って、違いを紹介します

専修念仏の浄土宗

南無阿弥陀仏とただひたすらに一心に念仏することによって、あらゆる人びとがすくわれるのが、浄土宗の「専修念仏」

浄土宗開祖の法然は、中国の善導大師の「観無量寿経疏」に示された『一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故』、「一心に専ら弥陀の名を称え、いつでもどこでも時間の長い短いに関係なく、常に弥陀の名を念頭におき継続する事が往生への正しい道である。その理由は阿弥陀仏の本願に順ずるからである」との一文に出あいました。

それまでの比叡山の浄土信仰の念仏は、念仏によって煩悩を断ち、念仏の出来ない人は往生できないとみなされていました。

でも法然が出あった専修念仏は、一心に「南無阿弥陀仏」ととなえれば阿弥陀仏のはたらきにより間違いなく往生できるというものでした。それも身分や貧富の差、老若男女などの区別なくすべての人がすくわれる教えでした。

絶対他力の浄土真宗

自らのはからいを捨てて阿弥陀仏のはたらきにただお任せし、阿弥陀仏からの本願を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえ救われるのが、浄土真宗の「他力の念仏」

浄土真宗宗祖親鸞は浄土宗の法然の元で、専修念仏の教えに出あいます。そして親鸞は専修念仏の教えを深く理解し、法然の『選択本願念仏集』の書き写しも許されました。

浄土真宗では、阿弥陀仏の本願が念仏となってこの私に届けられているとそのまま疑いなく信じ受け取ります。自分の口から出てくる念仏は「阿弥陀仏のお呼び声」であり、阿弥陀仏の仏恩に感謝する「報恩感謝」の念仏になります。

称名念仏の時宗

  • 法然の浄土宗は、専らお念仏を称えることによって往生する
  • 親鸞の浄土真宗は、阿弥陀仏の本願を信じることによって往生する
  • 一遍の時宗は、私が信じようが信じまいが、南無阿弥陀仏のはたらきによって往生が決まっている

時宗は称名念仏ですが、浄土宗も浄土真宗も称名念仏です。この3人の僧侶は同じ流れを持っています。親鸞は法然の弟子、一遍は法然の孫弟子の聖達上人から浄土の教えを学びました。

一遍は全国遊行し、学問や理論ではなく「南無阿弥陀仏」と念仏をただとなえることで極楽浄土へ往生することを人々に勧めました。一遍の念仏は、自らのはからいを捨てて阿弥陀仏の名号と一体となると浄土への往生が約束され、そのままで救われるものでした。

公式サイト『時宗総本山 遊行寺

自他融通の融通念佛宗

それまでの仏教宗派(天台宗・律宗・華厳宗など)は中国から日本に伝えた教えでした。融通念佛宗は日本国内で起こった初めての仏教宗派になります。

1人のとなえる念仏の功徳と大勢のとなえる功徳とが互いに隔てなく通いあって、浄土への往生が約束されるのが、融通念佛宗の「自他融通の念仏」

天台宗の僧侶であった良忍は、阿弥陀仏から「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」の偈文を受け取ったとされます。

一人の念仏と、一切人(他の人)の念仏と、阿弥陀仏の本願力との三者が融通し、私とその他の人がともに救われていくことが融通念佛宗の教え。自分一人だけの念仏ではなく、互いに関係しあっている念仏です。

公式サイト『融通念佛宗総本山 大念佛寺

当記事は「浄土真宗リンク集(お寺リンク集)」に一部を寄稿しています


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2023年の宗祖誕生850年法要

令和5年(西暦2023年)は浄土真宗の宗祖親鸞聖人の誕生850年、浄土真宗の教えが開かれた立教開宗800年の節目の年になります。

宗祖親鸞聖人は、1173年生まれ。

親鸞聖人は専修念仏の教えをまとめた『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』を、関東にいた1224年にほぼ完成させた。浄土真宗では1224年が浄土真宗の教えが開かれたとして、立教開宗の年としている。

浄土真宗各派では、令和5年ごろに、宗祖誕生850年・立教開宗800年に関連する慶讃法要が行われる予定です。

新型コロナウイルスの感染状況により、予定が変更される可能性もあります。

慶讃法要の特設ウェブサイトを用意している宗派を紹介します

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