こんばんは。 かっけいです。
今回はただの日記です。私がした自分自身の振る舞いに対して思ったこと(反省したこと)です。
先日とあるお寺にお参りに行きました。
浄土真宗のお寺はこのお彼岸の時期には、彼岸会や永代経法要が営まれているからですね。
お勤めの後には布教があり私は楽しみに聴聞さしていただくのですが、そのお話の時に私より2メートル先で椅子に腰かけていた人が急にうずくまるように椅子から降り、畳の上に倒れるように横になったのです。
目の前で倒れた人がいる場合は助けるのが当たり前ですよね。
でも私はすぐに動けなかった。
3秒~5秒程度、どういうわけか体が動かなかった。頭は動いていた気がする。
目の前で倒れた人がいるのに、すぐに駆け寄り声をかけられなかった自分がとにかく恥ずかしい。
いったいなぜすぐに駆け寄れなかったのか、今でもわからない。
幸いにその人には連れがいて、「お酒の飲みすぎだと。」すぐに心配した周りの人に説明していた。実際に倒れた人も畳の上に横にはなったが心配して声をかけた人に対して「大丈夫、大丈夫。」と手を払っていた。
結果的に、今回はお酒に酔った人が眠たくなって椅子から降りて横になっただけだったので、大事にはならなかった。
でも問題なのはそこじゃない。
なぜ私は一息おいてから動いてしまったのか。
- 周りに人がたくさんいたからだろうか。
- 知らない人だったからだろうか。
- 助けられる自信がなかったからだろうか。
- 事態を悪化させてしまう不安があったからだろうか。
いずれにしても動けなかった自分が情けない。
もちろん私は医者や看護師ではないので応急手当ができるわけではない。でも一応大学時代に防災士の試験に受かり、簡単な人命救助方法は身に付けている。
体調が悪くなった人に対して5秒程度声をかけるのが遅くなっても結果が大きく変わるわけではないだろう。
でもしつこく言うことだが、すぐに動けなかった自分が恥ずかしい。
倒れた人を助けること・声をかけることに損得勘定を働かしてしまったのかもしれない。
困った人を助ける行為に損や得やというのは関係ないことなのに、ひょっとすると自分にとって不都合なことになるんじゃないかなと一瞬でも思ったのかもしれない。もしもそうなら私はバカな人間だ。
場面が変わって私が大学時代に大学から帰るときに駅の構内で体調の悪そうにしていたおばあさんがいたことを思い出した。
あの時は周りに人がいたにもかかわらず誰も声をかける人はおらず、私は心配になって声をかけるとその人は大丈夫だと答えていた。
心配した私はその人を説得して椅子に腰かけてもらい5分程度一緒にいた。
5分もすると顔色がよくなって「ありがとう。だいぶ良くなった」と返事してくれて改札口から出ていった。
この時は目の前で急に倒れたわけではなく、私が駅構内に入ると気分の悪そうなおばあさんの様子が見えたので、いろいろと考えながら声をかけられたのかもしれない。
今回のように、いざ自分の目の前で気分が悪くなり倒れた人がいた場合、私はすぐに動けるのだろうか。(3~5秒程度動けなかった)
目の前で倒れた人がいた場合・困っている人がいる場合、声をかけて助けるのが当たり前だと私は思っているのだが、体が動かなかったそのほんの3秒の間に私はいったい何を考えたのだろうか。
ひょっとすると単に緊張して体がこわばっただけかもしれない。
困った人がいる場合には声掛けするという人が多いが実際にはどうだろうか。現実的にはそんなことはないだろう。私はこの短い人生の中でも見て見ぬふりをする人たちをたくさん見てきた。例を挙げるときりがないし今回の件と話しが違ってくるから内容は言わないが。
現代では「首を突っ込んで、トラブルに・厄介ごとに巻き込まれたくない」と考える人が増えてきているのではないだろうか。
困った人がいるとき、倒れている人がいるときに声をかけて対応し救助活動をするという声は聞くが、実際にはそんな行動をしてくれる人はどのくらいいるだろうか。
私は違うと思っていた。すぐに動けると思っていた。
5秒程度動くことができなかった自分の行動を恥じ、反省しなければならないと感じた。