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第327回目のラジオ配信。「ご満堂(ごまんどう)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

前回に続き、本山の春の法要のお参りを通じて感じたことを話しています。
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。
今回のテーマは「ご満堂(ごまんどう)」という言葉です。
皆さんはこの言葉、耳にされたことはありますか?
「お参りの人がいっぱいいて、お堂が満たされている状態」をさす言葉です。
今日は、この「ご満堂」という言葉について、今の時代のお参りの形と、もともとのご満堂という意味を比べてお話していきます。
さて、本題に入る前に、皆さんもよく知っている言葉を一つ出してみますね。「がらんどう」という言葉です。
がらんどうは人や物がほとんどなくて、ガランと寂しい、空っぽな状態のことです。
この「がらんどう」、「伽藍」というのはお寺の建物のことですね。お寺の広々とした境内と大きな建物の中は、普段は静かで、あまり人がいません。その「広々として誰もいない様子」が語源になって、空っぽの状態を「がらんどう」と呼ぶようになったそうです。
今日お話しする内容は、その対義語とも言える言葉です。
それが「ご満堂(ごまんどう)」です。
ご満堂は、漢字では、丁寧な「御(ご)」に、満ちるという字、そしてお堂の「堂」と書きます。「お堂がお参りの人たちで満ち満ちている」という尊敬の表現ですね。お寺のお坊さんにとっては、ご満堂ほどありがたいことはありません。
ですが、最近ではこの「ご満堂」という光景に出あうことが、本当に少なくなりました。ほぼありません。
先日、私は本山の春の法要にお参りしてきました。本山といえば、全国からご門信徒が集まる宗派の中心となる大切な場所です。それでも、法要の最中にお参りの人たちがいる外陣の参拝席を見てみると、空いている席が目立ち、正直なところ「ご満堂」には程遠い状況でした。
もちろん、日程によっては賑わう時もあります。初日の朝のお勤めでは、奈良からの団体参拝の方々がどっと来られたそうで、その時ばかりは「ご満堂」になり、用意していた椅子が足りなくなるほどだったと聞きました。
しかしですね。ここで思ったことがあるんです。
「今の時代のご満堂と、昔のご満堂って、意味合いが変わってきているんじゃないかなあ?」と。
現代で「今日はご満堂になりましたね」と言うとき、それは何を・どんな状態を指しているでしょうか。
おそらく「お寺が事前に並べて用意していた椅子席が、だいたい埋まった状態」を指していることがほとんどだと思います。
でも、ここには「落とし穴」が二つあると私は感じています。
その一つ目の落とし穴は、「お寺側がお参りの人数の上限を勝手に決めてしまっている」ということです。
たとえとして適切かは分かりませんが、大相撲では、お客さんが一定数以上入ると「満員御礼」の垂れ幕が出されますよね。今のお寺も、それと同じことをしている気がするんです。
「椅子が50脚並んでいるから、50人来れば満席・ご満堂だ」と、「300の椅子を並べていて、300の椅子が埋まればそれで、ご満堂だと」。こう最初からお参りの枠・上限人数を決めてしまっているように感じます。
でも、昔のお寺の様子を思い出してみてください。つい20年以上前、30年前までは、お寺のお堂に椅子なんて並んでいませんでした。みんな畳の上に、思い思いの場所に座っていましたよね。
今はどうでしょうか。
「あちらの椅子は団体さんのための予約席です」「今来られた方は、前の方の・正面の方の椅子から詰めて座ってください」と。
お寺側が管理しやすく整えられた空間に、参拝者が順に席に当てはめられています。整然とはしていますが、どこか「ワイワイガヤガヤといった」が雑多な自由な活気が削がれてしまっているような気がします。
二つ目の落とし穴は、「椅子席という座り方は、実はゆとりを持ちすぎている」という点です。
これは、私の過去の配信、椅子とお参りについて話した247回や132回でもお話ししましたが、椅子を並べるとなると、物理的にいろんな制約が出てきます。
まず、椅子の前後には人が通るための空間が必要です。どんなに狭くても60cm、できればもっと幅がないと、座っている人の前や後ろを移動できません。
さらに、仏様の方に向かう正面への通路がいくつか必要となります。お参りの人たちが行き交うためには幅1メートルは欲しいところです。
そして、忘れてはいけない大切なことが「避難経路」の確保です。
お寺は多くの人が集まる場所ですから、火事や地震などに備えて、出入り口付近を椅子で埋めるわけにはいきません。車椅子の方や、足腰が悪い方、介助が必要な方が詰まることなくスムーズに動けるよう、お堂内の周囲に出入り口付近には最低でも1メートルほどの「何もない空間」を確保する必要があります。
こうして計算していくと、椅子席にした場合、お堂が本来持っているキャパシティの半分、それ以下しかお参りの人たちが収容できなくなってしまうんです。
それでいて、その「収容人数の半分しか置けていない椅子」が全部埋まっただけで「今日はご満堂だ」とお坊さん側が満足してしまっています。これは、本来の「お堂にお参りの人が満ち満ちている」という言葉の熱量からすると、寂しいように思われます。
ではここで、本来の「ご満堂」とはどれくらいの人がお堂の中座っている状態を言っているのか。少し具体的に計算してみますね。
皆さんは「座って半畳、寝て一畳」という言葉を聞いたことがありますか?
人間一人がゆったり過ごすには、座るなら畳半分、寝るなら畳一枚分あれば十分だ、という考え方です。
この基準で考えると、例えば畳が50枚、50畳の広さがあるお堂なら、50枚 × 2人で100人がご満堂の目安になるはずですよね。でも実際は、椅子の前後の空間や前の方に行くための通路、出入り口付近のスペースを作らないといけないので、椅子の場合、畳50枚でも50~60人も座れば、結構人が座っているなあ、ご満堂だなあになるんですね。
一方で、お寺の現場での感覚、「昔ながらのお参りの感覚」だと違ってきます。
私がかつて聞いた話では、お寺でお参りする際、畳1枚に座る人数の目安は「最低でも3人、できれば4人」なのだそうです。
「えっ、畳1枚に4人も座るの!? それって窮屈すぎない!?」と思われるかもしれませんよね。
でも、座布団の良さは、椅子と違って「境界が曖昧なこと」にあります。
決まった通路がなくても、座っている人の間を「すいません、ちょっと横・前・後ろを通らせてくださいね」と、お互い譲り合いながらスイスイと自由に移動できていました。そしてまたお堂の隅っこまで、それこそ出入り口のギリギリまで、隙間なく座ることができていたんです。
ちなみに、お寺の畳というのは、皆さんのご自宅にある畳よりもちょっと大きかったりします。
例えば、私のお寺、円龍寺の本堂の畳でしたら、縦が約195cmで横が約95cmの畳です。ご家庭の一般的な畳だとだいたい縦180㎝横90㎝ぐらいだと思うので、それより少し大きいです。
このお寺の畳のサイズがあれば、大人3人が並んでもまだ余裕がありますし、4人でもお互い肩を寄せ合えば、十分に座れます。
もし参拝席50畳のお堂に、畳一つあたり4人が座ったとしたら、50 × 4で200人になります。
椅子を並べた現代の感覚だと50人〜60人ぐらいで椅子が大体埋まればご満堂ですが、昔の感覚ではその3倍から4倍のお参りの人がいて、初めて「ご満堂」と呼べるレベルだったわけです。
それともう一つ私は思っていることがあります。
それは、もともとの本当の意味での「ご満堂」についてです。
今のご満堂は、お寺が用意した椅子が全部埋まるくらいの人がいる、単なる人数の多さを指す言葉になっています。
でも元々は、老若男女、お年寄りから小さなお子さんまで、男の人も女の人も、体の不自由な人も、いろんな人たちが一つのお堂という空間に集まり、自由にお参りして、肩を寄せ合い共に仏様のお話を聞き、仏様に手を合わせる。
そしてそのお参りの人たちは、お堂の中に収まりきらず、縁側にも人が溢れ、さらにはお堂の外の地面、山門のあたりまで「今日はすごい人たちだなあ」と、はたからでもわかるくらい人が所狭しといる状態。
それこそが、私たちお寺の人間が理想とする「ご満堂」の姿だと思います。
元もとのご満堂は、お参りの熱量のことだと私はイメージしています。
今の時代、価値観も変わり、足腰の健康の問題もあり、椅子席は確かに必要です。昔のように「ぎゅうぎゅうに座布団を敷いてお好きなところに座ってください」というのは、現実的ではありません。
しかし、お寺側が管理しやすいように整然と椅子を並べておいて、その椅子の数を上限とあたかもお参りの人数に定員があるかと決めてしまうのはダメではないのかと。
私はご満堂になったという言葉を聞くと、そんな風に感じてしまいます。
今回はご満堂についてお話をしました。
昔のような、お堂からあふれるほどのご満堂は難しいでしょうが、せめてお寺の人が用意した椅子が全部埋まるようなご満堂になってほしいなあといつも願っています。
皆さんもお寺の法要にお参りに行かれた際は、ただ手を合わしてすぐに帰るのではでなく、もしよかったら読経儀式や、その後のお話も聞いて帰っていただければ幸いです。

