こんばんは。 僧侶のかっけいです。
日本人の平均寿命は男性が約81歳、そして女性は約87歳です。
世界でもトップクラスの長寿大国でありますし、元気な高齢者も非常によく見かけるようになりました。
しかし平均寿命が延びて、長生きするのが当たり前の時代にはなったのですが、それによって生死(しょうじ)の問題が解決したわけではありません。
むしろお坊さんの私から見れば、長寿社会になったことにより、日本人はますます自分の死に関して無頓着な生き方になってしまったのではないかと感じています。
お寺の過去帳を見て、感じること。
お寺には門徒の死亡記録をまとめた過去帳というのがあります。
今は便利な時代で、最近の平均寿命だけでなく、明治や戦前の平均寿命データを簡単に調べることができます。
しかしそれらはあくまで単に数値の変化を見ているだけであり、自分と関係のある人や家の死とは関係なく、特に心が動かされることはないでしょう。
ちなみに日本人の平均寿命は1900年ごろは40歳程度。終戦時まで徐々に伸びているがそれでも平均寿命は50歳程度でした。
それ以降の日本は平均寿命が急激に上昇し、あっという間に平均寿命が70歳を上回っています。
どうしてそんなに平均寿命が延びたのでしょうか。
理由は単純です。乳幼児や若い20・30代の若者の死亡率が減ったからです。
お寺の過去帳を見ていますと昔の死亡年齢には大きな傾向が見て取れます。
- 若い世代の死亡者が多いこと。
- 長生きしている人はそれなりにいること。
お寺の過去帳には生まれてすぐ亡くなる子供、数年生きて亡くなる子供、食糧難や病気により亡くなる子供、さらには戦死するものなど、非常に若くして亡くなる子が多かったです。
死亡した月日を見ますと、不作の年だったのでしょうか、追うようにして次から次へと子供が亡くなっています。
昔は兄弟が多いことが普通でしたが、ひょっとすると自分には兄や弟がいたことを知らずに大きくなった人もいます。それぐらいお寺の過去帳には幼くして亡くなる人が多く、常に死というものが身近にありました。
そして昔であっても長生きの人はそれなりにいたことです。
もちろん現代の様に90歳や100歳以上の年齢は稀ですが、70歳以上そして80歳というのはままありました。
実際データとしても戦前であっても60歳まで生きた人の平均余命は15年程度という調査結果があります。
お寺の過去帳を見ていきますと、常に若い命失われている環境、そして親たちは数多くの死を経験しながら生き抜いていた様子が感じられます。
「死にたい」と「死ぬかもしれない」は別物。
さて今の時代は自殺者が非常に多いです。20歳から34歳までの死因第一は自殺であり、割合は約50%です。
全世代の総数では年間2万人以上が亡くなっていますね。
「死にたい」という感情は精神的な辛さからやってくるもので、人間生きていればほぼ必ずと言っていいほど経験するのですが、医療技術が進歩した現代でも自殺率は改善しません。(むしろやや悪化している)
死にたいと感じるのは思春期などの多感な時期において、自分の生き方や生と死や周りとの関係について悩み、そして負の感情の連鎖に陥ってしまうからです。
悩みを打ち明けられストレスを和らげることができて、孤独を感じなければ心の余裕は生まれるのですが、なかなかそのような環境が整わないのが原因だったりします。
一方で「死ぬかもしれない」とはどのような感情だろうか。
これは常に自分のいのちに終わりが来るという恐怖の中に生きているという不安です。
人間を含め生き物とは常に死と向き合っています。
仏教的な表現をすれば、「無常の風」が吹くですね。生き物は普段とは違う常ならざる風に合うとすぐにこの命が失われてしまいます。
今の時代でも重い病気にかかると急に自分のいのちが気になり、死への感情「死ぬかもしれない」が湧き上がってきます。
昔の人々は死んでいく子や孫そして兄弟たちの様子を見る中に、今の自分が自分だけのいのちではないことを感じ、また死がより身近な存在だったのではないだろうか。
周りが長生きしようが、自分の死は自分の問題。
有難いことに今は長生きするのが当たり前の時代です。
ペットの犬猫もお参りに行きますと20年以上も生きていることもあります。昔では考えられなかったですよね。
それはやっぱり戦争が無かったり、食事が改善されたり、医療技術が進歩したからですね。
しかし長寿が当たり前になろうが、死というのはいつやってくるのか分かりません。
他人が100歳以上生きようが、自分のいのちが明日終わるのか今日終わるのか今終わるのか、それは誰にもわかりません。
仏教をはじめ宗教は生死(しょうじ)の問題が大きなテーマになっています。
「生と死」ではありません。「生死」の問題です。
生きることと死ぬことは常に一体となっており、人生とは生きがいのみによって生きるのではなく、死にがいによって迷いなく自分の生きるの道が見えてくるのです。
長生きするのが当たり前・自分はおそらくまだまだ生きるだろうと漠然と考えるのではなく、自分のいのちが尊いものであり、数えきれないほどの縁や支えによって生かされている事実に気が付いていくことが大切です。
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さいごに。長寿社会に対するお坊さんの懸念。
この前お参りの人と雑談をしていますと、「111歳を祝う呼び方を知っていますか?」とクイズを出されました。
私は分からなかったのですが、答えは「皇寿」だそうです。
調べてみますとよく聞く米寿や白寿どころかもっともっと増えているようです。
これも寿命が延びたことによるのでしょう。
寿命が延びるのは確かに素晴らしいことなのでしょうが、それでもやがて終わりというのは訪れます。
そして何よりも孤独な人が増えた印象です。
家族の崩壊・地域の崩壊・寺院神社離れなど様々な理由はあるでしょうが、80年90年100年と生きて見守られることなく死んでいくのは、はたして自分の望んだ生き方死に方だったのでしょうが。
年を重ねると喜びが増えているよりかは、むしろ愚痴や不満の声が増えている人ばかりではないだろうか。
人生は「道」という言葉にたとえられます。
自分の歩んでいく道を知る中に、辛いことや悲しいことがあっても迷わずに進める灯が見えてきます。
かつてはその教えを生活の中で知ることができました。しかし今の家族や地域や信仰が崩壊した現代ではなかなか難しいところです。
個の時代という響きはよろしいのかもしれませんが、一方で自分のいのちの問題について見つめるチャンスを失い、さらには自分のいのちが支えられてきたことに気が付かない寂しい命になっているんじゃないかなあと私は懸念します。