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捨骨:散骨とは遺骨を捨てて処分してることでしょ

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僧侶のかっけいです。

人間さいごには何が残るでしょうか。

そう、お骨ですね。

では火葬し白骨になった後、扱われるお骨にはどのような言葉が使われるでしょうか

  • 遺骨(いこつ)
  • 収骨(しゅうこつ)
  • 拾骨(しゅうこつ)
  • 焼骨(しょうこつ)
  • 納骨(のうこつ)
  • 埋骨(まいこつ)
  • 分骨(ぶんこつ)
  • 散骨(さんこつ)

色々ありますよね。でも拾う骨はあっても、捨てる骨(捨骨)という言葉は存在しません。勝手な想像ですが、おそらくお骨を捨てるという意識がこれまでの日本人には無かったからではないでしょうか。

さて先日、オウム真理教の元代表であった松本智津夫が火葬され遺骨になりました。松本はその遺骨の引き渡し相手には教団とは離れた四女を指名したようです。しかし四女自身は引き取るならば遺骨を太平洋に散骨したいと希望しているようです。四女の代理弁護士は『遺骨はオウム信者にとって神聖なものとされ、信仰の対象になる恐れがあることから』と海にまく理由を説明しています。

散骨(さんこつ)は、パウダー状にした遺骨を海や山や宇宙などにそのまま散布するという葬送方法であり、「自然に還す」という綺麗な聞こえの良い言葉を使っていますが、実際の所は「遺骨が邪魔だ・処分したい・廃棄したい」という捨てる意識、つまり捨骨という言葉が適しているのではないだろうか。

まだ日本に存在していない捨骨(しゃこつ)について書いていきます。


お坊さんが散骨を勧めたくない理由

はじめに申しておきますが、お坊さんの中にも散骨に肯定的な人・積極的な人はいます。独自に散骨募集している寺もあります。

またはお墓や納骨施設に納めることを保守的で頭の固いとか考える人もいるかもしれません。

しかしお釈迦様が亡くなってからの2000年以上、私たちは亡き人のお骨を大切に敬ってきました。散骨という葬送方法がこれからの多様化する時代の流れで流行っていくかもしれませんが、お坊さん的には散骨では不安になることがあります。

散骨とは先祖参り(墓参り)をしない葬送方法

仏教的に言えば、骨は拝むもんじゃありません。骨は骨です。骨に魂があったり霊があるわけではない。骨は骨です。

仏教を説かれたお釈迦様も亡くなった後、荼毘に付し(火葬し)、お骨の状態になりました。それまでのインドの慣習にならい川に流す方法もあったでしょうが、残された仏弟子たちは仏様の遺骨を分けてインド各地にお骨を納める仏舎利(ぶっしゃり)を建てました。

なぜわざわざ遺骨を納める建物を用意したのだろうか。散骨してもよかったのに。

それは自分につながる先人を偲び敬う気持ちがあったからではないだろうか。

散骨することは決して悪いことではない。しかしそれでは足りないことがあるのだ。参る場所がないのだ。問い訪ねる場所がないのだ。

仏教では4つ大切な考え方があります。そのうちの一つが諸行無常です。死んだ後のお骨とは、今生きている私たちに対して、死んだ人が最後に身をもって伝えることができる仏法のすがたです。亡くなった先祖のお骨・先人のお骨を見て「他人の骨」と思うのか、それとも「自分も歩んでいく先のお骨」と感じることができるのかどうか。常に同じということはなく、自分自身もまた過去から現在未来へと絶えず変化している存在であること。

お骨を墓や納骨施設に納めるというのは、今生きている私がいつでも先祖に参ることができ、物言わぬ骨であったとしても心からの交流ができる場所です。

散骨にはそれができないからおすすめできないのです。海に散骨したとしてその場所に座標をたてておいたらお参りできますか?おそらくできないでしょう。できたとしてもそれは一代限りのことで、後の人には何も偲ぶ場所は残せないことになります。

墓は残された人が偲び、敬うことができる場所

冒頭、松本四女の弁護士の『遺骨はオウム信者にとって神聖なものとされ、信仰の対象になる恐れがあることから』という言葉を紹介しました。

これはもっともな説明です。

というのも世界的に見ても、遺骨・遺灰・遺物というのは大切にまつられてきているからです。

例えばローマカトリック教の総本山があるバチカン市国には有名なサンピエトロ大聖堂があります。あの建物も聖ペトロの墓の上に建てられた聖堂がはじまりです。イスラム教の聖地であるマディーナ都市も、イスラム教開祖のムハンマドの亡くなった地であり最初のモスクが建てられた場所。日本でも例えば東本願寺(真宗本廟)もまた宗祖親鸞聖人の墓所(廟堂)がはじまりです。

今でこそ多くの観光客が訪れる場所ですが、はたして彼らは信仰心があるからその場所に行っているのでしょうか。

いいえ、そんなことはありませんよね。

その場所を大切に守り、偲び敬う人たちの連綿なる願いが形となって残り、宗教心や信仰心を持たずとも気軽な気持ちで後の人達も行くことができるのです。

地球・大地・自然・宇宙にかえすという散骨は、形が残らないから参りにくいだけでなく、そのスケールの大きさの戸惑いからかどこに手を合わしていいのかも思いを馳せればいいのかもわからないのではないだろうか。人というのは自分の見える範囲・規模に大きさや形を表さないと、具体的に行動することが難しいのです。

海に流す散骨も、その時は晴れ晴れとした気持ちの良い瞬間かもしれませんが、いざ自分が何者か振り返る時、先祖を訪ねる時、偲び敬うのことが難しくなるのではないだろうか。


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さいごに。これからは捨骨の受け皿に散骨が利用されるのではないだろうか

散骨するのは必ずしも悪い葬送方法ではないだろう。しかし私は仏教僧侶的な立場から言えば、後の世に残された人がいつまでもお参りできる形でおまつりするのが相応しいと考えます。

「自然にかえす」という綺麗な響きの良い言葉から憧れとして散骨を選ぶのではなく、一歩立ち止まってお骨のあり方を考えて欲しい。(例えば遺骨の一部を散骨し、残りを信頼できるところに納骨)

といっても今はメディアの影響力か、散骨や自然葬や樹木葬や宇宙葬という言葉が目立つようになっています。

今回の弁護士の発言のように、遺骨が「厄介者・邪魔者・迷惑者」というような意識から散骨という葬送方法が選ばれ、厄介払いのために散骨が利用されているのであれば、それは非常につらいところです。

捨てる骨・廃棄する骨として散骨が利用されてしまうのであれば、納得し純粋に供養の気持ちから散骨をしようとする人もはた迷惑ではないだろうか。

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