真宗僧侶のかっけいです。
お釈迦様の名前にはたくさんの呼び方があります。
- お釈迦さま
- 仏陀(ブッダ)
- 釈迦仏・釈迦牟尼仏陀(しゃかむにぶっだ)
- 釈尊(しゃくそん)
- 世尊(せそん)
- 釈迦如来(しゃかにょらい)
- 教主(きょうしゅ)
浄土真宗のご本尊は阿弥陀様です。しかしこの仏様は歴史上の人物ではありません。この仏様の法を説かれたのが仏教を開かれたお釈迦様です。
お釈迦さまには尊敬と親しみを込めて様々な呼び名が用いられています。それらを紹介していきます。また阿弥陀様の呼び名も紹介します。
お釈迦さまの呼称一覧
本当ならば仏教開祖のお釈迦様には「様」表記がよろしいのでしょうが、浄土真宗は親しみを込めて名を呼びがちなので、私もお釈迦さまと「さま」の表記で以後書きます。
ゴータマ・シッダールタ(ガウタマ・シッダッタ)
浄土真宗ではこの呼び名を用いることはそんなにありません。しかしお釈迦さまの誕生を祝う花まつり法要の時に紹介することがあります。
「ゴータマ・シッダールタ」は「ガウタマ・シッダッタ」と表記されることがあります。発音の違いなので意味に違いはありません。
ゴータマ(ガウタマ)は釈迦族を表す名前です。一族の名前、お釈迦さまの姓のことです。ゴータマには最も優れた雌牛の意味があるようです。
シッダールタ(シッダッタ)は名前に当たります。音写では「悉達多」とも表されますが、浄土真宗ではほぼ使いません。
仏陀(ブッダ)
お釈迦さまの名前はゴータマ・シッダールタです。
ですが仏教の開祖の立場としては、真理に目覚めた人や悟った人を意味する「ブッダ」という尊称を用います。
サンスクリット語のブッダの音写が「仏陀」であり、この呼び名は浄土真宗もよく使います。また仏陀の意味を訳した「覚者(かくしゃ)」もよく使います。
釈迦牟尼仏陀(釈迦仏)
お釈迦さまは釈迦族の王子でした。ですのでお釈迦さまの父(浄飯王)は自分の国を持っていました。(コーサラ国の属国でしたが)
釈迦牟尼仏陀はカタカナ表記で「シャークヤ(シャーキャー)・ムニ・ブッダ」に分けられます。
シャークヤ(シャーキャー)は釈迦族という民族の名前です。先ほどのゴータマはお釈迦さまの属していた釈迦族の中の姓です。
ムニは尊く優れた人・尊者の意味です。
ブッダは上で紹介したように目覚めた人・悟った人の意味です。
つまり釈迦牟尼仏陀は「釈迦族の出身の尊い人であり真理に目覚めた人」の意味になります。
私たちはこれを親しみを込めて「釈迦仏」や「釈迦牟尼」と呼びます。浄土真宗では「お釈迦さま・お釈迦さん」とよく呼びます。釈迦牟尼仏陀はかたい言い方ですよね。
釈尊(しゃくそん)・世尊(せそん)
釈尊は釈迦牟尼仏陀から派生した言葉です。
釈迦牟尼仏陀は釈迦族出身の尊い覚者の意味です。そこから釈迦尊者そして略して「釈尊」となります。浄土真宗ではめったに使わない表現ではないでしょうか(私は使わない)。
世尊は浄土真宗では『重誓偈(じゅうせいげ』にも出てきますよね。ただしこの世尊は世自在王仏や十方諸仏のことです。
そのため世尊だけではお釈迦さまをさしているとは限らないので、お釈迦さまに限定する時は釈迦牟尼世尊や大聖世尊といったように表現すると親切です。
世尊は世において最も優れた人の意味です。そのため仏教経典ではお釈迦さまのことを世尊の名称でよくあらわします。しかし繰り返しますが、世尊だけではお釈迦さまと限定できないので注意です。
釈迦如来(しゃかにょらい)
釈迦如来は仏像の名称でよく登場する気がします。
釈迦はお釈迦さまのことですね。
如来は真如(真理)から来たものという意味です。如より来るから如来です。
釈迦牟尼仏陀は釈迦族の中から出てきた尊く真理をさとった人という尊称ですが、釈迦如来はダイレクトに「仏(如来・真実)」ですよと敬っているように感じます。
余談ですが如来も世尊も仏を表す呼び名です。ですのでやっぱり如来だけではお釈迦さまと限定できないので注意です。
教主(きょうしゅ)
教主は浄土真宗のお坊さんはそこそこ使います。阿弥陀仏との関係を示すときにね。
教主と単独で使わず「教主釈迦如来・教主世尊・教主釈尊」と言います。(教主だけだと他の宗教でも使うからね)
教主というのは教えを説いた人という意味です。仏教では仏教の開祖であり様々な仏様の教え・法を説いたお釈迦さまのことをさします。
また余談ですが、浄土真宗の宗祖親鸞は日本に仏教を広めてくだっさた人物として聖徳太子を和国の教主と讃嘆しています。
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阿弥陀仏にもたくさんの別名がある
浄土真宗は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」というお念仏をとなえますよね。
これを称える理由は、仏説無量寿経に「私(阿弥陀仏)の名前を称えることによって極楽浄土に生まれることができますよ。なぜならこの名号には阿弥陀仏の願い・功徳があるからですよ」と誓われているからです。(説明足らず)
阿弥陀仏の法を聞きいただいている浄土真宗の人たちは、阿弥陀仏がすすめられた念仏をただ「ありがとうございます」ととなえているんですね。
しかしどうでしょうか。
仏壇やお寺の飾りをみますと、阿弥陀仏のことを「無量寿仏・無礙光仏・不可思議光仏」などと表現していることに気が付くかもしれません。
阿弥陀仏を表す言葉はたくさんあります。それらを紹介します。
阿弥陀・弥陀
阿弥陀(あみだ)とはサンスクリット語の「アミタ」からきていると言われています。それを音写しているだけです。漢字に意味はありません。
ちなみに「ア」は否定を表し「ミタ」は量るを意味します。
つまり阿弥陀とは「量ることのできない仏・限りない仏」という意味をもちます。
しかしお経文や和讃には弥陀(みだ)で頻繁に表されます。これでは阿弥陀仏の仏様がもつはたらきの意味が真逆になってしまいます。
私の勝手な推測ですが、おそらく弥陀の方が語感がいいのと、弥陀は2文字なので漢文や歌の納まりが良かったのではないでしょうか。
阿弥陀様・阿弥陀さん
お釈迦様(釈迦如来)のことをお釈迦さんと言う人もいますよね。
それと同じように阿弥陀様(阿弥陀如来)のことを親しみを込めて阿弥陀さんと呼ぶ人もいます。
私の属する宗派のスローガンは『やっぱり阿弥陀さん』です。『やはり阿弥陀様』よりも私はしっくりきます。
私が一番よく使う表現も「阿弥陀さん」です。阿弥陀様はやっぱり阿弥陀さんでしょ。
無量寿仏・無量光仏
阿弥陀はサンスクリット語のアミタから来ています。
もっと詳しくすると「アミターユス」と「アミターバ」というサンスクリット語です。これが阿弥陀仏の仏様のはたらきです。
アミターユスは無量寿、アミターバは無量光に音写されます。阿弥陀仏は私のものさしでは量ることのできない光といのちの仏様という意味です。
仏説無量寿経は阿弥陀仏(無量寿仏)のお経ということです。
阿弥陀仏の智慧をたたえる12種の光
仏説無量寿経には阿弥陀仏の本願が説かれています。あらゆる人が阿弥陀仏の浄土に生まれる誓願です。
無量寿経には阿弥陀仏の智慧の光が12種類説かれています。
- 無量光(むりょうこう)仏:はかることのできない限りない光
- 無辺光(むへんこう)仏:際限のないどこまでにも届く光
- 無碍光(むげこう)仏:なにものにもさえぎられることのない光
- 無対光(むたいこう)仏:他とくらべるもののない優れた光
- 光炎王(こうえんのう)仏:無明の暗闇を照らす最高の輝きをもつ光
- 清浄光(しょうじょうこう)仏:むさぼりの心を除くきよらかな光
- 歓喜光(かんぎこう)仏:いかりを除きよろこびを与える光
- 智慧光(ちえこう)仏:無明の闇を破る智慧を与える光
- 不断光(ふだんこう)仏:常にこの私を照らす光
- 難思光(なんじこう)仏:人間の物差しではおもいはかることができない光
- 無称光(むしょうこう)仏:説明つくすことができない光
- 超日月光(ちょうにちがっこう)仏:日月の光よりも優れたかたよりのない光
お正信偈にもでてきますよね。すべて阿弥陀仏の智慧の光です。
これらの一つひとつを阿弥陀仏の仏名として呼ぶことはあまりありません。なぜなら南無阿弥陀仏の六字の名号にはこれらの阿弥陀仏の智慧の光がすべて含まれているからです。
なお親鸞聖人作の浄土和讃の冒頭には阿弥陀仏の名号(徳号)を40近く列挙しています。
不可思議光如来・尽十方無礙光如来
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」の六字名号をとなえます。
さらには「南無不可思議光如来」の九字名号、「帰命尽十方無礙光如来」の十字名号もとなえます。
不可思議光如来は浄土真宗での七高僧の一人である曇鸞(どんらん)が阿弥陀仏のことを不可思議光仏と説いたことによります。
尽十方無礙光如来は浄土真宗での七高僧の一人である天親(てんじん)が阿弥陀仏のことを尽十方無礙光如来と説いたから。
ちなみに浄土真宗の親鸞の名前は、この二人のお坊さんの親と鸞から名付けられています。
救主(きゅうしゅ)
浄土真宗ではお釈迦さまのことを教主(きょうしゅ)、阿弥陀仏のことを救主(きょうしゅ)としています。
阿弥陀仏の私たちを必ず救うという(教主)の法をあきらかにされすすめられたのがお釈迦様である(教主)ということです。
ちなみにお釈迦さまと阿弥陀仏のどちらが偉いというのは浄土真宗では問題にしておらず、釈迦と弥陀の二尊のはたらきによって法が届けられているのです。どちらも同じく尊いのです。
阿弥陀仏ご本尊の前にお仏飯が二つ供えられているのはこれが理由です。『浄土真宗ではご本尊にお仏飯を二つ(一対)供える理由』
法蔵菩薩(阿弥陀仏の菩薩名)
仏説無量寿経やお正信偈には「法蔵(ほうぞう)菩薩」の名前が出てきます。
これは阿弥陀仏が仏になる前(あらゆる衆生を救う誓いと願いを立てる前)のお名前です。