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第287回目のラジオ配信。「御朱印」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。
今回は浄土真宗の御朱印についてのお話です。
御朱印とはお寺にお参りしたことをしめす参拝の印、あるいはお経を納めたことをしめす納経の印、そういう参拝の印、納経の印としてお寺から授かるものを御朱印といいますよね。
それで一般的に浄土真宗には御朱印はない、いただけないと思われている方も多いと思います。
実際、浄土真宗の西や東の本願寺さんではご本山自身が御朱印をしませんと言っているもんですから、浄土真宗のお寺では御朱印がいただけないんだと思われる方も多いことでしょう。
でも浄土真宗では御朱印がないというわけではないです。
そんな御朱印のことを今回、短くお話していきます。
さて私のところは浄土真宗の興正派という仏教宗派です。京都駅の北側にある興正寺が本山で、全国に500弱の末寺があります。
西や東の本願寺さんと比べるとあまり有名ではないですが、1212年に京都の山科で創建された歴史ある寺です。
京都の東に位置する東山の霊山には、霊山本廟という宗祖親鸞聖人のご遺骨が納められている本山興正寺の納骨所があります。
私のところのお寺、自坊円龍寺は興正寺の末寺で、香川にあります。
先日、自坊にお参りに来られた方が「この6月に霊山本廟にお参りしてきました。御朱印もいただきましたよ。」とお話されました。
霊山本廟にお参りにいったら「御朱印しています」の文言があり、てっきり浄土真宗には御朱印はないものだと思っていたようなんですが、あるならいただきたいとのことでお願いしたそうです。
興正寺は以前から御朱印を出していたはずです。
私の父が興正寺の霊山本廟長だったときにも、御朱印を何度か書いたことがあります。
インターネットで検索すると、誰かがのせたそのときの御朱印もいくつか見ることができます。
浄土真宗では御朱印がないと一般的に認識されているようですが、お寺によっては御朱印を出している寺もあります。
ただしこれには注意点があります。
御朱印を授けている浄土真宗の寺でも御朱印に熱心でなかったりします。
というのも本来、お寺にお参りしたという参拝の印、お寺にお経を納めた印として寺が授けていたものです。
しかし浄土真宗の場合、お参りした回数とか、写経し納経をするということをそこまで重要視していない面があります。
寺に参ったら厄除け、開運、無病息災などといった御利益があるといったものはないです。何度もお参りすればお願いごと・御利益が叶うといったものもないです。
浄土真宗のお寺が出している御朱印は、あくまで寺に参拝をされましたねという印にすぎません。
浄土真宗の御朱印には、全体的にこんな特徴があると思います。
納経といった文言はなく、参詣・参拝という文言があるくらいです。何も書かれていないこともあります。
お参りの印ですので日付と寺の名前があるくらいです。
私のところの本山興正寺では、興隆正法や倶会一処といった言葉が書かれています。
興隆正法とは興正寺の寺の由来となった言葉であり、真宗興正派のスローガンのようなものです。
倶会一処とは仏説阿弥陀経というお経の中の文言で、また必ず阿弥陀仏のお浄土で出会うという阿弥陀仏の働きを表した言葉です。浄土真宗のお墓に彫られていることもありますよね。
御朱印そのものにご利益があるわけではなく、拝むものでもないので、仏さまの名前は書かれなかったりしますね。
浄土真宗の御朱印はあくまで、寺にお参りしたことを示す参拝の印としていただくものです。
ただの参拝の印であり、浄土真宗のお寺であっても御朱印を出しているところはあります。
ただし注意点があるんですね。
御朱印をもらうことが目的になってはいけないんです。
お寺にお参りするのは、仏様参りです。または亡き人、先祖を偲ぶためです。
御朱印はおまけですし、御朱印はなくてもいいんです。
一度でもお参りした事実、何回何十回何百回お参りしたことがある事実は浄土真宗のお寺においては、全く大事なことじゃないです。
考えてみてください。家のお仏壇に手を合わすとしますよね。
お仏壇に手を合わすたび、お参りするたびに、何年何月何日にしたと記録をつけますか?しませんよね。
お参りする回数、お参りした事実ではなく、仏様のもとにどうお参りしたかどうかの方が大事です。
浄土真宗のお坊さんである私の考えとしては、御朱印はあってもなくてもどちらでもいいと思っています。
浄土真宗のお寺にお参りに行かれた方自身が、御朱印をもらうことが目的にさえなっていなければ、御朱印はあってもいいと思います。
この前、本山興正寺の霊山本廟にお参りされて御朱印をいただいた人が言っていました。
御朱印をいただいたあと、御朱印代を請求されなくて、さあどうしたもんかと思ったそうです。
御朱印を書いてくれた人に尋ねると、お気持ちで、受付横の箱の中にいれてくださいと言われたそうで、その人いわく、音のならないお金を入れたそうです。
この対応はお寺によって、様々だと思います。
御朱印を受けた場合、たいていの人はお金がかかると思っていますし、実際多くのお寺では、御朱印代のお支払い金額をハッキリと決めていると思います。
ただ私のところの本山の場合だと、金額は決めていません。お気持ちであり、誰が何円入れたかなんて見ていません。
私の父のときもそうです。
父が霊山本廟長だったときは、東日本大震災のあとでした。なので、御朱印をいただきお気持ちとして箱に入れてくださったそのお金は、東日本大震災で困っている人に向けて送られたはずです。
御朱印は商売ではないので、お金を決めること自体が私はナンセンスだと思います。
お話を締めますね。
浄土真宗の寺では御朱印がないと思われがちですが、そんなことはないです。
参拝された印として頼まれれば書いてくれることもあります。
ただし、浄土真宗では、御朱印はそこまで重要ではないので、あまり積極的にやっていません。やっている寺でも「御朱印ありますよ」なんてわざわざ言わないでしょう。
なんにせよ、御朱印をもらうこと、集めることが目的にならないように心がけて、仏様参りをしていただけたらと思います。
仮に御朱印がない浄土真宗の寺でも、例えば蓮の花をかたどった華葩や法語が書かれたものを、参拝の記念品としてご用意して下さっていたりします。
今回は、浄土真宗の御朱印のお話をしました。

円龍寺の住職、私の父は、本山興正寺の納骨所「霊山本廟」の初代本廟長でした。
霊山本廟では毎月、『求道(ぐどう)』が発行されています。
父が本廟長だった間の求道の文章をリンク先に掲載しています。お時間あれば、お読みくださいませ。

神社や浄土真宗以外のお寺では、境内の入り口にお参りの回数を数える「百度石」が置かれていることがありますよね。
百度石について以前お話したことがあるので、リンクを貼っておきます。