デジタル時代にあえて「紙のお経本」をめくる理由#328

第328回目のラジオ配信。「デジタルとアナログ」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

内容まとめ
  • 最近の小学生は学校でタブレットを使っている
  • デジタル(モニター)とアナログ(紙媒体)、どっちがいいの?
  • 私も日常生活はデジタルにお世話になりっぱなし
  • インターネット環境やスマホやノートパソコンには本当に助けられている
  • 本は「場所と配置」で記憶でき、記憶のとっかかりになってくれる
  • 法事の時、お経をモニターに映したが、すぐにやめました
  • 仏様参りが薄れるのと、家での再現性がないから
  • お経本を自分の手でめくるのはありがたいことだと感じた

かっけいの円龍寺ラジオ

これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。

今回は、「デジタルとアナログ(紙)」をテーマにしてお話をしていきます。

今の時代、便利になりましたよね。

今ではどこに行ってもスマートフォン・タブレットが当たり前になりましたよね。皆さんは、何かを読んだり調べたりするとき、画面でみるデジタル派ですか? それとも本や紙のページをめくるアナログ派でしょうか。

今日は、デジタルとアナログのそれぞれのいい面を考えながら、お寺における「お経の本」のあり方についてお話ししていきます。

さて、先日、ゴールデンウィーク中にいろいろ法事がありました。大型連休ということもあって、法事の席では遠方からもご親戚が集まってくださったのですが、その中には小学生や中学生ほどのお子さんたちもいました。

久しぶりに会う親戚のおじさんやおばさんたちからは、「学校はどうなの?」「ランドセルは重くないの?」「電車に乗って行っているの?」なんて。質問攻めに合っていました。

するとある子どもさんが、「最近は学校ではタブレットを使って授業しよるよ」と話してくれました。

私たち大人が子供のころにはなかった授業スタイルなので、みんなタブレットの授業がどんなものかあまりイメージがわかないところです。

聞くと、教科書が全部なくなったわけではないそうですが、一人一台タブレットが配られていて、それで勉強するのが当たり前で、家でもスマホやタブレットがあるから、そのお子さん曰く、学校でタブレットを使うことに何の違和感・疑問にも思わないみたいなんですね。

私たち昔の人間、大人の世代からすると、「教科書ってかさばるし重たいから、あんな薄い板一枚で勉強できるなら便利でいいよねえ」と感心する反面、どこか「何か画面が壊れるんじゃないか、怖いなあ」、「やっぱり紙の方がええんやないかなあ」という気持ちもなんとなく頭をよぎります。

かくいう私も実は、日常生活ではデジタルにお世話になりっぱなしです。

簡単な調べものやニュースを見るのはスマホですし、こうして音声配信の調べ物・資料整理をするときや話す内容のメモ書きもノートパソコンです。書き直しもスムーズですし、インターネット環境やスマホやノートパソコンの使い勝手には本当に助けられています。

でも、こんなことも思い出されます。

私が学生だった頃、わからない言葉を辞書を引くときに、先生がよく「電子辞書よりも紙の辞書を使うように」と言っていました。

理由は、「ページをパラパラめくって調べると、調べようとする目的の言葉の前後にある、他の言葉にも触れることができるから」というものでした。

確かその通りで、紙をめくると、意図せず、いろんな言葉にであうきっかけが生まれるんですよね。

もっともその通りだなあと思う反面、頭が固くなった大人がやっても、さっき見た言葉、周りにある言葉は一瞬で忘れてしまうんですよね。

あの目に見えたものを「何となくついでに覚えられる」というのは、好奇心が旺盛で記憶力の高い子供だからこそできる、アナログの良さだと思います。

そういう意味では、子供こそアナログ・紙でページをめくるのはいいんじゃないかなあと思います。

それじゃあ、私たち大人にとって、アナログの代表、紙の媒体つまり本の良さって何でしょうかね。

私はよく感じるのですが、「場所・配置」で記憶できるのが本の良さだと思います。

読み慣れた本であれば、「だいたいあのページの、左上あたりにこんなことが書かれとったなあ」「このページをめくった先にはこういった内容、あんな話があるなあと」という感覚、皆さんもありませんか?

本の内容を完璧に一言一句覚えていなくても、ページをめくる時の感触や、文字の配置、紙の質感などが、記憶の「とっかかり」になってくれていると思います。

これがデジタルだと、画面をポチポチっと押してページが変わり、シュッとスクロールするだけで、情報が流れていくので、頭の片隅に残る記憶の引っ掛かりがなくなるような気がして少し不便に感じることがあります。

私は本を縦に積み上げる積読はしないんですが、本棚に本を並べるのは好きです。

読み慣れた本だと、開かなくても、こういうことが書いてあったなあとなんとなく思い出されますし、手が覚えているのか、目的のページにさっと開けるので、これはアナログの良さだなあと思います。

実は私のお寺、円龍寺では、かつて、お経本をモニターに映すことを試したことがあります。

お経本をデジタルで表示してみたかったんですね。

あるとき、お参りの方たちが一緒にお経を読みやすいようにと、お寺の本堂に大きなモニターを設置して、お経の文字を映し出してみました。

これなら文字も大きくて読みやすいし、お寺側もお経本を配ったり回収したりしなくていい。合理的で皆さんにとっても便利な改善だと思ってやってみました。

ですが、これはすぐにやめることにしました。お経本をモニターで映すのはだめだなあと思ったからです。

理由は二つあります。

一つは、「お寺の主役は仏様であり、拝むのは仏様」ということです。

モニターに文字が流れると、皆さんの視線がずっと画面に釘付けになってしまいます。せっかく仏様参りに来ているのに、テレビを見ているのと同じような感覚になってしまいます。さらには、お隣の人とちょっとした雑談をするような、お参りの人同士の交流も消えてしまうような感じでした。

モニターにはお経の言葉やきれいな映像が流れるのはいいですが、それはわざわざ皆さんが集まる法事の席ですることではありませんでした。

そしてもう一つ、大きな理由があります。それは「家での再現性」です。

お経を読むのは、お寺だけではありません。ご自宅のお仏壇の前でも、皆さんそれぞれお経本を開いてお勤めしますよね。

モニターで流れる文字を追うのは楽ですが、それは「誰かに自動でページをめくってもらっている」のと同じです。

いざ家でお経本を開くときに、「あれ、これどこに書いてあるんかな?」と迷ってしまうんですね。

自分でページをめくって、その場所を指で押さえながら読む。

そのひと手間がないと、お経の言葉が自分の中に馴染んでいかない。そう感じました。

私の知り合いにキリスト教の方がいます。

その方は一冊の聖書を、何十年も大切に持ち続けています。

もう見た目はボロボロです。まさに「読み破る」という言葉がぴったりな状態になっています。

でも、そのボロボロの聖書こそが、その方にとっての宝なものなんですね。

「このあたりの、この手触りのページには、こんな言葉がある」ということが、身に染みているんですね。それこそ開かなくても手で押さえるだけでわかるほどです。

一方で、私たちお坊さんやご門信徒の皆さんはどうでしょうかね。

私たち浄土真宗の方たちも、一冊のお経本を何十年も持ち続けて、手垢で黒くなるほど使い込んでいる人を、最近ではあまり見かけなくなりましたが、そういう姿には本当に頭が下がります。

デジタルは確かに便利です。かさばらないし、検索も早い。ちょっとしたメモ書きも修正も簡単です。

しかし、アナログの紙には、自分でめくる煩わしさや場所をとるという面倒くささがあるからこそ、それが記憶や印象を引き出す「とっかかり」になると私は思います。

お経の本を自分の手で開き、言葉を目で追い、口に出し、耳で聞く。

その不便とも思えるちょっとしたひと手間こそが、仏様や先祖を偲ぶ時の大切な時間になるのではないかと思います。

そういうわけで、デジタル・アナログ、どちらにもいい面はある一方で、仏様参りではアナログ、紙媒体を使っていくのはとっても有り難いことだなあと私は感じています。

なので、私のお寺ではこれからも法事のときは、モニターではなく、お経本が配られることになるでしょう。

皆さんも、お手元にお経本があれば、その「場所」や「手触り」を確かめながら楽しみながら、ゆっくりと読み返してみてはいかがでしょうか。

デジタルでさっと読むのもそれはそれでいいでしょうが、仏様参りをするときは、アナログに頼ってもいいと思います。

それで読んだお経本は、そのままお経机の上に置いてみてください。ふとした時に、ちょっと手に取ってみるだけで、ああ以前、ここを読んだなあ、ここをみんなで読んだなあとなんとなく思い起こされると思います。

今回は、「デジタルとアナログ」をテーマにお話ししました。

皆さんはデジタルとアナログどっちが好きですか?どっちも好きですか。

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