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第220回目のラジオ配信。「お経の暗記」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをする音声配信です。
今回はお坊さんはお経を暗記しているのかをテーマにしてお話していきます。
先日の法事のお参りで、「お坊さんってお経本を見なくても大丈夫なんですか?」「お経をそらんじて読むことができるんですか?」と聞かれました。
この手の質問はよくあって、どうやら多くの人は、きっとお坊さんはお経文を暗記しているに違いない。と思っているようです。
確かにお坊さんって法事のときとか、お経をスラスラと読んでいますし、お焼香のお盆を後ろに回すときやお墓のお勤めで、お経本を見ていないから、お経の本を見なくても大丈夫なんじゃないかなあと思われるのでしょう。
正直なことを言いますと、お経本の中身をまるまる完全に覚えているわけではありません。
とくに長いお経は全然覚えていません。
でも日常的によく読むものについては、自然と口が覚えているので、お経の本を見なくても、口からお経の言葉がでてくるようになります。
浄土真宗でしたら、仏説無量寿経と仏説観無量寿経と仏説阿弥陀経とお正信偈が大切な読み物ですね。
私の場合は、仏説阿弥陀経とお正信偈さんは、毎日のように口に称えますので、自ずと覚えてしまいました。
ですがここで注意点です。
お経文は覚えようと思って覚えるものではありません。
自然と覚えてしまうもんです。
それこそ門前の小僧ならわぬ経を読むということわざのように、お経を毎日のように耳にしたり、口に称えたり、目にしていくと、結果としていつの間にか覚えてしまうものです。
今から20年以上前のことですが、私が小学生のころ、夏休みのラジオ体操が毎朝あって、私のお寺、円龍寺
が集合場所となっていました。
ラジオ体操の後は、お寺の本堂でお正信偈さんを子どもたち全員でお坊さんと一緒におつとめしていました。
すると夏休みのたった一ヶ月ぐらいのことですが、3年も続けるとラジオ体操に来ていた子どもたちの多くはそらんじて口にできていました。
そんな風にお経は自然と覚えてしまったりするわけです。
ちなみに読経は、「お経を読む」という言葉で表されていますよね。
読むという文字は、読書でも同じ意味を持ちますが、文字で書かれたもの・テキストを一字一字を目にして口にすることを表します。
なので、暗記して、そらんじて、目で見ずにお経を読むのではなくて、実際にお経の本を開いて、お経の文字を目にして読むのが、読経というわけです。
お坊さんは毎日のようにお経を読むので、結果として、お経を覚えてしまっているお坊さんはたくさんいます。ですが、そういったお坊さん達も、お経本を開いてお経を読んでいます。
なぜならそれが読経だからです。
開いて読むというのが大事なんですね。
浄土真宗の私の宗派ではしませんが、他の仏教宗派では転読というものをするそうですね。
大般若経のような600巻もあるような膨大なお経文は読むのがたいへんだから、お経の本を開いてパラパラパラ~と高速でめくることで、そのお経を読んだことにするそうです。
お経文を開いたり閉じたりすることで、お経を読んだことにし、お経の風を起こすことで仏さまの功徳を得られると考えているようです。
こんな例もあります。
大勢のお坊さんが一緒にお経を読むときに、バラバラにならないようにリズム・タイミングをそろえる音木という拍子木を、私の属している宗派では使います。
私なんかは、お経の本をめくりながら鳴らすので、手元が慌ただしそうですが、お経を完全に覚えているベテランのお坊さんだと、お経本を最初だけ開いていて、一切めくっていない人もいます。
めくらないんだったら、「お経の本を開かなくてもいいんじゃないの?」と思うかもしれませんが、いやいや読経はお経の本を開いて読むことに意味があるので、めくらなくても必ず開くわけです。
話は戻って、お経は覚えなくてもいいよについてすこし説明しますね。
そもそもお経は何のために読んでいるのかと言えば、仏さまの教えが説かれているものであり、その教え・仏法を私たちが味わうためです。そしてまた、仏さまの徳を讃えているわけです。
お経を読むのが達者な人にありがちですが、お経を覚えている人、読み慣れている人は、お経を超高速で読みがちです。
まるで早く読むことがいいかのように読んでいますよね。
しかしお経を読む行為は、仏さまへの讃嘆であり、お経を読む私自身が仏様からの説法を受けているわけです。
なので、お経文の一字一字、私の口からでるお経文の声は本来しっかり味わいながら、お勤めしなければならないわけです。
お経を覚える必要がないというのはこういう理由です。
覚えるのがダメというわけでは決してありませんが、覚えてしまうことで、お経を口先だけでとなえてしまうようになってはもったいないです。
私自身、お寺で阿弥陀経やお正信偈さんを読むとき、お経本を見ずに読むことがあります。
でもそういうときも、お経文を読みながら内容を心の中でイメージしたり、仏さまの像やお荘厳のお飾りを見て、仏様からの説法として耳にしていただいています。
お経を覚えるのはもちろん良いことなんですが、それで読経がおざなりになってはいけないということです。
こんな話があります。
香川県丸亀にある私の寺、円龍寺のすぐ北に、妙好の人と慕われた山地願船さんという人がいました。
100年ほど昔、ここらでは、阿弥陀経を500回や1000回読む仏事がありました。
回数が多いので、一緒にお勤めしていたお坊さんらは、ものすごい勢いでお経文を読み上げるんですが、山地願船さんは、自分に聞かせるようにゆっくりゆっくりと一字一字を押さえて、大切にして読んでいたそうです。
願船さんは、一字でも落としたらもったいない。一字一字が仏様だとおっしゃていたそうです。
お経には仏さまの教えが説かれています。
お経を覚えるのはとってもありがたいことですが、それが結果として、お経をおざなりにしないように心がけないといけません。
お経を読む行為は私自身がしていることですが、その口から出るのは、仏さまからの説法・呼びかけです。
なのでしっかりとお経の本を開いて、そのお味わいをいただいてほしいところです。
以上で、今回の「お坊さんはお経を暗記しているのか」をテーマにしたお話を終えます。
なお、関連するお話として、40回目の配信でなぜお経は朝夕に2回読むのかについて紹介しています。
お経を朝夕2回読む理由は、お釈迦様がインドで説法されていたころに由来があります。
よろしければそちらもお聞きくださいませ。
お経を暗記するメリットとデメリット
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