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真宗十派本山の成り立ち.ラジオ#119

第119回目のラジオ配信。「真宗十派」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

真宗十派本山の内容まとめ
  • 1207年、福井上野ヶ原で親鸞が初めて真宗の説法をしたのが誠照派の始まり
  • 福井山元の庄での説法後、後に親鸞が子や孫を遣わしたのが山元派の始まり
  • 親鸞没後の1290年、如導が福井大町に建てた寺が讃門徒派の始まり
  • 1212年、赦免後に京都に戻った親鸞が山科に建てた寺が興正派と佛光寺派の始まり
  • 1225年、親鸞が栃木高田に寺を建てたのが高田派の始まり
  • 1233年、親鸞が京都の出雲路に建てた寺が出雲路派の始まり
  • 1235年、帰洛の途中滋賀の木部に立ち寄り、阿弥陀像を安置したのが木辺派の始まり
  • 没後の1272年、娘が墓を移しお堂を建て、親鸞像を安置したのが本願寺派や大谷派の始まり

かっけいの円龍寺ラジオ

この番組では香川に住む浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをするラジオです。

浄土真宗の本願寺派の西本願寺と高田派の専修寺では、毎年1月9日から宗祖親鸞の遺徳をしのぶ報恩講が七昼夜勤められてますね。この音声を配信する1月11日は、まさに報恩講の法要まっただ中です。

国に届け出している包括宗教団体のうち、浄土真宗は20近くあるのですが、そのうち興正派・大谷派・佛光寺派・高田派・木辺派・出雲路派・誠照寺派・讃門徒派・山元派・本願寺派と、十個の宗派が真宗教団連合に加わっていて、親鸞を宗祖と仰ぐ浄土真宗の主要な10派となっています。

10派あるので寺院数の多い教団も少ない教団もあります。またその他細かな違いもたくさんあります。例えば宗祖の御正忌報恩講の法要も、本願寺派と高田派は1月16日にむけて七昼夜しますが、その他8派は11月28日にむけてお勤めします。

1月11日の今回は、真宗各派10派の成り立ちについて親鸞聖人の足跡の順に簡単に紹介します。

なお、それぞれの宗派の伝えるところは一般に通説として認識される歴史年表と少し異なることもありますが、今回は各宗派の伝える内容でお話します。それと親鸞聖人のお名前は、生涯に何度か変わりますが、今回は親鸞で統一します。また年数や地名や宗派名などが何度かでてくるので、人物名はほぼ言わないようにします。

それではさっそくお話します。

1173年に京都で生まれた親鸞は9歳で比叡山の山にのぼり、29歳で山を下り、浄土宗の宗祖に出あいます。1207年に、35歳の親鸞は越後への流罪となります。

越後・新潟への道中、親鸞は越前・福井県の上野ヶ原や山元の庄という場所を立ち寄りました。

上野ヶ原は親鸞による浄土真宗の最初の説法の地とされ、道場を開かれ、やがて親鸞の子どもがこの地に来て、お堂を開きます。これが真宗誠照寺派本山誠照寺のはじまりとされます。

また同じころ親鸞は山元の庄にて説法をします。親鸞が京都に戻った後、山元の人の呼びかけに応じて、親鸞自身のすがたの像や仏様のお名号を子につかわしたり、また孫は親鸞の遺骨を持ちいって、山元の庄にて浄土真宗の教えを広げます。これが真宗山元派本山證誠寺の始まりとされます。

また時はすこし遅れて親鸞が亡くなった後の1290年に、如導というお坊さんが福井市大町の地に専修寺というお寺をたて、後に場所を移して専照寺と改めます。

親鸞の書いた『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の3つの和讃をもって、浄土真宗の教えをやさしく説いたとされます。親鸞の和讃を大切されたことから「和讃門徒」と呼ばれたり、誠照寺派誠照寺・山元派證誠寺・専照寺の3つが並び立っていたので、この宗派に属する人を三門徒と呼びました。これが真宗讃門徒派本山専照寺です。

1211年、親鸞や法然は流罪が許されました。

法然はただちに京都に戻りました。一般的な通説では、親鸞は京都に戻らず、数年間しばらく新潟にいた後、関東に向かったとされます。一方で真宗興正派と佛光寺派では、1212年に親鸞は一時京都に戻り、京都から関東に向かったとしています。

1212年、戻った親鸞は京都の山科に寺を建て、順徳天皇から「興隆正法寺」の名をいただき、略して「興正寺」と名づけたとされます。これが真宗興正派本山興正寺の始まりとされます。また真宗佛光寺派本山佛光寺の始まりでもあります。

その後、1320年に山科から京都の渋谷に興正寺をうつし、しばらくして天皇から「阿弥陀佛光寺」の名をいただき、略して「佛光寺」と名づけたとされます。興正寺と佛光寺の2つの名をしばらく使っていましたが、1482年に兄が興正寺を引き連れ、弟が佛光寺の跡をつぎ、興正寺と佛光寺が別れます。

ちなみに興正寺佛光寺では室町時代に、日本の仏教宗派において最初の女性の門主が輩出された宗派です。また佛光寺派ではこれまでに3人の女性門主がいます。

さて親鸞は罪がゆるされた後、しばらくして関東に向かいます。

1224年には茨城県笠間にて、阿弥陀仏の専修念仏の教えを体系的にまとめた『教行信証』をほぼ完成させたとされます。

その翌年の1225年、親鸞53歳のときに、栃木県真岡市高田の地にてお堂を建立します。

仏様は日本最古の仏像とも言われる長野県善光寺から「一光三尊仏」を模してつくった阿弥陀仏を本尊としたと伝えられます。1226年には天皇より「専修阿弥陀寺」の名をいただき、専修寺と名のります。これが真宗高田派の始まりとされます。

高田派では親鸞が建てた唯一のお寺とされています。

栃木県高田に建てた専修寺は関東での中心的な寺になり、浄土真宗の教えを広げ、徐々に関西の方に向かいます。やがて高田派は室町時代に伊勢・三重の門信徒の頼みにより、三重県一身田にお堂を建て西日本の拠点にしようとします。しばらくして関東高田の専修寺が焼け、三重県一身田に移り住んだことから高田派の中心地となり、この場所が真宗高田派本山専修寺となります。

正確な年数は不明ですが、1235年頃に親鸞は関東から京都に帰ったとされます。

真宗出雲路派の伝えるところによると、1233年に親鸞は京都の出雲路に草庵を建て、子の善鸞に出雲路の草庵を与え、これが真宗出雲路派本山毫摂寺の始まりとされます。

出雲路とはかつて出雲の国・島根から移り住んだ人たちがいたとされる場所で、京都御所の東側、鴨川のY字に別れたところ、下加茂と上加茂の間にあったとされます。

その後毫摂寺は福井県にうつり、誠照寺派本山誠照寺・山元派本山證誠寺・讃門徒派本山専照寺の4つの本山を合わせて、越前四箇本山と呼ばれるようになります。

親鸞が京都に帰ったとされる1235年、帰りの道中に滋賀県木辺に立ち寄ります。

この木辺には比叡山延暦寺3代目座主が、858年に伝教大師最澄が彫ったとされる毘沙門天をまつったお堂があるところでした。親鸞は関東から持ち帰った阿弥陀如来像を安置して、真宗念仏の教えを説いたとされます。木辺派によると、親鸞滞在中の1238年に天女が舞い降りてきて蓮の糸で錦を織ったとされます。このことにより天皇から「天神護法錦織之寺」といただき、「錦織寺」と名のるようになりました。これが真宗木辺派本山錦織寺の由来です。

858年からはじまるこの木辺の地は、真宗十派の歴史で最も古く、親鸞の足跡を残す唯一の本山となっています。

ちなみに浄土真宗の本山は、阿弥陀様を西に拝むようにお堂を東向きに建てることが多いですが、滋賀県の木辺派と三重県の高田派の2つの宗派本山のみお堂が南向きとなっています。

京都に戻った親鸞は1262年に亡くなります。

火葬された親鸞の骨は、京都の大谷の地、現在の浄土宗本山の知恩院があるあたりにお墓が建てられます。

その10年後の1272年に、親鸞の娘がお墓の位置を自分の敷地内に動かし、お堂を建て親鸞聖人の座像を安置します。

元々お堂を建てる費用は関東の門弟たちが出したとされ、門徒共有の親鸞の廟所・お墓でした。しかし、関東の門弟たちは常には京都の親鸞の廟所にいるわけではないので、誰が跡を継承するのかというゴタゴタはありましたが、親鸞の娘や孫と子孫が継いでいくという形になりました。これが本願寺派や大谷派の大元のはじまりとなります。

その後、親鸞の廟所をお寺のようにしていき、はじめは専修寺と名のりましたが、比叡山の反発もあり、1233年頃に本願寺の名称が見られるようになります。

本願寺が西の本願寺派本山本願寺(通称、西本願寺)、東の大谷派本山真宗本廟(通称、東本願寺)の2つに別れたのは1602年の戦国時代から江戸時代の移り変わる頃ですが、これについては、短く簡単にお話することはできないので今回は割愛します。

以上で、浄土真宗の主要十派。真宗教団連合に加わっている10の宗派本山の成り立ちを簡単に紹介しました。

2021年11月23日に配信した112回目のラジオでは、親鸞の生涯についてもお話しましたので、そちらも合わせて聞いていただけたら幸いです。

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真宗教団連合とは

真宗教団連合

真宗教団連合は、親鸞聖人を宗祖と仰ぐ10ある浄土真宗真宗教団が、1969年に加盟して結成された。前身は1923年に発足した「真宗各派協和会」。公式サイト『真宗教団連合


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真宗十派とは

真宗十派一覧
宗派本山場所団体数
本願寺派本願寺京都10250
大谷派真宗本廟京都8624
興正派興正寺京都499
佛光寺派佛光寺京都374
高田派専修寺三重641
木辺派錦織寺滋賀211
出雲路派毫攝寺福井60
誠照寺派誠照寺福井71
讃門徒派専照寺福井38
山元派證誠寺福井20

本願寺派の本山の正式名称は「本願寺」ですが、「お西・西本願寺」の通称もあります。また大谷派の本山の正式名称は「真宗本廟」ですが、「お東・東本願寺」の通称が浸透しています。

表の団体数は、令和2年版の『宗教年鑑(文化庁編)』を引用してます。

讃門徒派は2020年11月29日以前は「三門徒派」でしたが、これからは「真宗讃門徒派」に変更されます。

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