先日12月12日に、自坊のお寺で報恩講法要がありました。お参りされる人は若い人が少なく、歩くのが辛いお年寄りばかりです。
お寺では椅子を用意して、読経・法話のときの負担を減らしているのですが、なかなか本堂に上がるまでの石階段を登るのがしんどそうです。
お参りされた人から「どうしてお寺や神社は、こんなに段差がきついのですか?」と質問されました。
実際私のお寺、円龍寺の本堂前の石段を見ると、およそ25センチメートルの高さの段差でした。ほんの4段なのですが、年を取ると辛そうです。
さて皆さんはどう感じますか?お寺や神社に行かれた時に、段差があって苦労したなあという経験がありますか。
例えば私の住む香川県で、一番有名な観光名所は、琴平町にある「こんぴらさん」です。この神社は、ふもとから本宮まで「悩む」で覚える「786」の石段があります。
結構な数の石段でしょう。奥の院までだと1368段まであるとされます。数えたことがないのでほんとかどうかは知りませんが。
さてどうしてこんなに段差があるのでしょうか。
きっと多くの人が、「そりゃ神社が山にあるんだから、階段が増えるのは仕方ないだろう」と答えるでしょう。
でもこんぴらさんは明治の神仏分離令まで、金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)をまつる神社だったんですよ。そしてその金毘羅大権現は、伝説上、多度津の港の近く、金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)横の桜川で上陸したとされます。
それがどういうわけか、10キロメートル以上離れた山の上でおまつりされるようになっているんですよ。
不思議ですよね。
どうしてわざわざ段差を増やしてお参りするんでしょうか。お参りするのが大変なのにね。ちなみに上陸したところにある金刀比羅神社は約10段ほどの石段です。また金毘羅大権現は、海上交通の安全を祈願する神様となっています。なおさら船乗りがお参りしやすい海のそばが良いと思うでしょう。
でも実際には、しっかりと歩かないとダメな場所に神社があるんですよね。
石段が多い答えを言いますと、神さまや仏様にお参りする時に、自然と頭が下がるようにするためだとされます。
「な~んだ、そんなことか」と思われる人も多いでしょう。
でも実際、こういう石段の配慮がないと、人は簡単に神さまや仏様を見下ろしてしまうんですよ。
最近、大きな仏壇から小さな仏壇に変える家が多くなりました。私もお参りすることがありますが、仏様を見下ろすような位置に仏壇を置く家がけっこう多くあります。
本人は見下ろすつもりはなくても、つい見下ろしてしまっているのです。段差が必要なさそうな平地にある神社やお寺でも、ちょっとばかりの段差があるのも、その階段を上る際に、少しでも頭を下げるようにという思いから、段差をもうけているのです。
「頭を下げさせるために、登りにくい段差をわざわざ作るなんて性格悪い」と思う人もいるかもしれません。
しかしそうでもしないと頭を下げることができないのが人間だとも言えます。また頭を下げることが、相手に対して敬うという姿を示すということでもあります。
例として、茶道の世界から茶室を紹介します。
茶室の入り口をご存知でしょうか。お茶を振舞う主人はふすまから立って部屋に入りますが、客人はどうですか。
茶室の建物の外に用意されている、約70センチ四方ほどの小さな入り口から身をかがめて入らないといけません。
この入り口は「躙り口(にじりぐち)」と呼びます。にじるとは、正座をした状態のままずりずりと膝をすって中に侵入するという意味です。
躙り口があり頭を下げると自然と、相手に対して、お茶をもてなしてくださる主人に対して、敬う気持ちや謙虚な気持ちが生まれるのです。
石段や躙り口は、無理やり頭を下げさせられていると思う人もいるかもしれません。しかし見方を変えれば、これがあるおかげで、私たちはお参りする度に、常に敬うという気持ちを持つきっかけを得ることができます。
神さまや仏様は尊い存在として、見上げて拝みます。高い場所にまつられるのは、仕方のないことかもしれませんが、その階段を上る際に、「ああ頭を下げないといけないんだなあ」と振り返っていただきたいです。
そしてもう一つ、お寺に石段がある理由を紹介します。
お寺は古くから、山に例えられます。自分の知っているお寺を確認してほしいのですが、多くのお寺は「○○寺」という寺号の他に、「○○山」という山号を持っています。私の寺も金顕山という山号があります。
平地にある寺なのに、なぜ山の名前があるのでしょうか。
それはお寺が、仏法に出あう場所・修行する場所・念仏をとなえる場所といったように、世俗と区別した場所を表すために、山に例えられたのです。
実際には奥深い山に入りはしないのですが、ほんのちょっとの石段をあがるときに、気持ちだけでもお寺に参るときは、これから山に入って仏様に対して手を合わそうという気持ちを持つのです。
お寺に石段があると、年をとっていくとだんだんお参りするのが辛くなるでしょう。だからこそ元気なうちからお参りしてほしいです。またその階段を上る際には、ここから先は神聖な敬う空間なんだなあと感じつつ、頭を垂れて合掌してくれればなあと思います。