「回帰」2014年12月
東山三十六峰の嶺より、紅葉が錦を織り成すように、ここ霊山本廟の周辺にも届くと、まさに錦秋と呼ぶのに相応しい景色となり、やがて束の間の浮世の宴が終わると間もなく、木々は冬の準備に取り掛かります。先月、十一月の本廟の楓も、薄紅を差したように葉先から色づきながら、寒さとともに紅(くれない)に染まり、もう師走に入ると、冬の寒さに耐える為に葉を落としながら眠りにつくように体を休めます。自然の摂理とはいえ、人生にも重ね合わせると寂しさも感じてしまいます。
ところで、私自身今年を振り返りますと、春四月一日、霊山別院の本廟化に伴い、急遽本山勤務より霊山本廟へ単身赴任を致しました。その折には、坊守から「どうぞ、お好きなようになさって下さい。」と、あきらめ顔で言い渡され、「本廟に行くのはいいですけど、まさか本廟にご自分のお骨を納めて戻ってくるのではないでしょうね。」と、釘を刺されてしまいました。実際、寺の留守を預かるということは、日曜日はもちろん休みなどなくなり、寺での生活そのものが仕事となります。
思い起こせば、先代父親には子供の頃より、昔は雑巾を持たぬ日はなかったと言われ、雑巾掛けをすると、次は箒を持たぬ日はなかったと言われ、「それじゃどうしたらいいのですか」と言い返すと、雑巾掛けも箒で掃くのも、両方毎日するものだとまとめて叱られたものです。今思えば懐かしい限りですが、いつのまにか今度は私の方が、若い者のすることが気に入らないようになり、やはり親の子なのでしょうか。
さて、秋の深まりにあわせ紅葉だよりと前後して、北の各地より鮭のニュースが届きます。瀬戸内育ちの私には馴染のない魚でしたが、旅行にて間近に鮭の遡上を見て驚いたことに、鮭は産卵のために生まれた川に舞い戻り、それが母川回帰(ぼせんかいき)ということを知りました。数年間外洋で回遊し、どうして生まれた川が分かるのでしょうか、また必ず母なる川に帰ってきます。遡上中、体は傷だらけになりながら、ただ次なる生命を紡ぐためだけに、いろいろな障害をくぐり抜け上流を目指し、新たな生命の誕生のために、自らの命を代償として差し出し、産卵を終えると、そこでその命は燃え尽きてしまいます。捕獲され食べられるものもあれば、大地に帰っていくものもあり、最後まで自分の命をもって、自然の生命という世界にお返しをしていくのです。ひるがえり私たちの人生も、もがき苦しみ傷つきながら何処へ向かい、次世代に何を残し、何処へ帰ろうとしているのでしょうか。私たちも母なる川や道を求めて歩んでいるのに違いありません。
今宵、深々と静まり返った霊山の私室にて、心に染み入るジャズを聴きつつ、マイルス デイビスの「バイ バイ ブラックバード」の切ないまでのミュートに心を震わせ、『悩みや悲しみを全部バッグに詰め込んで、どこかで私を待ってくれている優しい人の所へ そう彼女のもとに・・・』に胸を詰まらせながら、帰るべき処を訪ね求めた一年が、夜の静寂(しじま)とともに暮れてゆきます。
合掌
「晩鐘」2014年11月
参道に舞い落ちる枯葉に、秋深しの物悲しさを覚えながら、部屋の一輪挿しのススキの穂を眺めていると、おもわず郷里の風景が胸に迫ります。例年十三夜の頃には、丸亀藩京極家別邸の中津万象園で催される月見の宴にて、名残惜しむように一秋を満喫していたはずですが、霊山本廟の留守を預かる今の私には望むべくもなく、せめてこの霊山の地から同じ月を眺めることで心を慰めていました。
それにしても、なにゆえ月は人の心を惹き付けるのでしょう。古より洋の東西を問わず、月にまつわる事象は、あらゆる分野で歴史を彩ってきたといえます。もし月が存在しなければ、陽光さす昼間から落日後、突然闇夜になり、それは生と死をも想起させる寂寞たる世界になったことでしょう。おそらくほのかな明かりを演出する月が、人の心の中に憂愁と影をもたらしたからではないのでしょうか。
自然科学の幼き時代の人々にとって、自らの拠り所が動き、天に舞い空に浮かぶ月の本質を知る由もなく、しかしながら、日の光と入れ替わるように現れるおぼろげなる月光に、心の影や内なる世界を見出したからこそ、月に憧憬と悲哀を抱いたのに違いありません。特に日本人の心には、「雪月花」や「花鳥風月」に表されるように、もののあわれや美意識を月に投影し、また多くの歌人が月に思いを重ねているようです。
郷里の丸亀に程近い善通寺の吉原町には、諸国漂泊の西行法師が旅の途中に庵を結んだ旧跡があります。ミカン畑に囲まれた山の中に、息を潜めるようにたたずむ庵を訪ねると、そこには木の葉を揺らす風のみで、月さえ友にしたい幽寂の世界があります。自然と向き合い自己と向き合う中で、花や月をこよなく愛し想い焦がれた西行法師は、心の果てに何をいただいたのでしょうか。私には西行法師という人が、仏の世界を現世と来世で願い、聖の心を持ちながらも、花月を通して捨てきれぬ俗世の哀楽を歌にしたところに、多くの人たちが心震わせるのだと思います。
ここでいつもの休題ですが、どなたにも心の奥底に、口に出さずとも手を合わせ頭を垂れる姿がある筈です。それは無視することのできない、主体的な命の有限さと自然への畏怖に、内心驚いた時だと思います。そこで思い浮かべる絵画の一つに、ミレーの『晩鐘』があります。自然主義とも写実主義ともいわれるこの絵画には、夕闇が迫ろうとする直前の燃えるような瞬間の光の中に浮かぶ農夫を通して、人間本来の崇敬さと敬虔な姿に、私には宗教心なるものの普遍さを強く感じるところです。農夫の背景から伝わる、辛苦にあえぐ人を遠くからそっと温かく包み込む鐘の音は、鑑賞する人にさえ聞こえてきそうです。
かつて、心ときめかした古き良き映画に『誰がために鐘は鳴る』がありましたが、だれかの為に鐘は鳴るのではなく、生きとし生けるもの全ての命の上に響き渡っているのです。
合掌
「記憶の固執」2014年10月
待ちわびた冷涼溢れる空気を味わいながら、コオロギたちも束の間の秋を楽しむように、愛おしい音色を奏でています。秋のお彼岸も過ぎますと、後は日中が短くなるばかりで、まさに白秋の思いがつのります。気がつけば季節の移ろいの速さに驚きつつ、私としては人生の黄昏にはもう少し先などと抗いながらも、いつの間にか百代の過客の寂しき客人の一人となっています。
さて、中国の傅大士の言葉に、「朝な朝な仏とともに起き、夕な夕な仏をいだきて臥す」とありますが、一日を報仏の功徳を持ちながら起き、弥陀の仏智とともに臥すことは難しく、折角この霊山の懐に抱かれながらも、機に遠き私には、残念ながらため息とともに、刹那のごとく日ぐらしをしてしまいます。
そんな中、有り難いことに、浄土真宗ではお勤めの後に、蓮如上人がお書きになった御勧章の拝読があります。誰もがご存知の『白骨章』、それに『末代無智章』や『聖人一流章』などは、毎朝のお勤め後には頭を垂れて、蓮如上人から私へのお手紙といただいて、早朝の冴えていない頭にでも、一日の始まりには勿体なく聞き入っています。
それにつけても、蓮如上人はこれらの御文をどなたに宛てられたのでしょう。門信徒のために与えられたお手紙とされていますが、その穿鑿(せんさく)よりも、私にとってはある瞬間頷けたこと、つまり蓮如上人には別の感得があったように思えてならないのです。
「聖人一流の御勧化のおもむきは・信心をもって本とせられ候、云々」。文言の飾言を剥ぎ取り、簡潔にまとめられた文体は、紛うことなくご自身の心に宛てた、蓮如上人の独白ではなかったのでしょうか。きっと感涙に咽びながら、親鸞聖人のお心を自分宛の手紙にしたためたからこそ、時空を超えて私たちの心に届き、随喜をもって涙がこぼれ落ちるのだと思います。悲しい哉、なぜ今までこの私は漫然と拝読し、何といたずらに聞いていたのでしょう。返すがへす、申し訳ないことです。
人生の戻らぬ時計の針に、嘆息をつきながら思い浮かぶのが、ダリの『記憶の固執』です。この絵は別名『柔らかい時計』とも呼ばれているもので、時間の概念やら生と死そのものの不安定さを問う作品でしょうが、理屈を用いずに鑑賞し、人それぞれの感性に任せるべき作品だと思います。
「記憶」とは、辛い出来事を、記憶の彼方に追いやり、目を背けることではなく、人生に寄り道などなし、灯火のついた家へ帰る道こそ、いばらの道も有り難き道なのです。
合掌
「蝉」2014年9月
霊山本廟の盂蘭盆会法要が勤められた翌週、今私は、まだ熱さの残る風を頬に感じながら、子供たちと一緒に手を合わせ、地元のお地蔵さんにお参りをしています。これは地蔵盆といわれる京都に残る晩夏の風物詩です。今でも関西地方を中心に続いている宗教行事で、浄土真宗のお寺と直接の関係はありませんが、地域の大人たちとともに、子供たちの成長を願う習俗と申せましょう。
地蔵盆が終わると、さすがに夏も峠を越え、蝉の鳴き声にも一足早い秋の訪れを感じます。この霊山本廟に住込み始めて分かったのですが、蝉の鳴き声にも何かしら地方色があるようです。知っての通り蝉は、オス蝉しか鳴かぬわけですが、京都の蝉は大変穏やかに鳴きます。この霊山は木々に囲まれた所ですから、耳栓まで用意しなければと覚悟をしていましたが、その鳴き声たるや何とお上品なことでしょう。それに引き替え郷里の香川の蝉の喧しいこと。蝉の鳴き声を聞けば、文化が分かると言えば言い過ぎでしょうか。それとも、蝉の世界でもこの頃風の草食系蝉の登場なのかもしれません。
ところで、蝉は夏や秋の季語に用いられますが、その喧噪とは反対に、「ものの哀れ」をも表します。うつせみとは「空蝉」と書きますが、土中に長く暮らしながらも、天敵の多い地上に這い出て残り僅かの命を燃やす。それは新しい命を紡ぐ最後のお礼なのでしょう。
さて、夏の日差しから秋への香り漂うなかで、思い浮かべるのが、モネの「日傘をさす女」(一八七五)です。十一年後に製作された「左、(右の)日傘をさす女」は、パリで見ることが出来ます。後年の作品のモデルが誰かについては諸説あるようですが、私のような素人にはどのようにも理解できるわけで、絵画鑑賞なるものは、どれだけその作品に自分が入り込めるのかであり、むしろ年月を経たモネの心胸を頂くところに興味が湧くわけです。
写実から印象への軌跡のなかで、画家の目を通した世界。それは喜びと悲しみの思い出であり、製作時における、まさに印象世界なのでしょう。
私たちも心にフィルターをもっています。過去の辛い悲しい出来事も、今の私に何を残してくれたのか。心の一部分となり、手が届きそうで届かない愛しき思い出。過去に生き、今を生きる私たちに、どうか慈悲という名の光が頂けることを願っています。
合掌
「蓮華」2014年8月
暑中お見舞い申し上げます。
京都の夏を彩る祇園祭も、今年は約五十年振りに後祭が催されたとか。一か月に及ぶ宴も終わると、早この七日には立秋です。秋の気配を味わう暇もなく残暑の挨拶もそこそこに交わす言葉は、酷暑への恨み節ばかりです。
ただ、我々の愚痴をよそに季節の花だけは凛として精一杯咲いています。私の郷里の香川では、ため池が多く有名ですが、農耕地の減少に伴い、小さな池では夏の七月から八月にかけて蓮の華を多く見かけます。可憐で清楚な水上の華は、数日で散ってしまう儚さと、水中の泥のよごれに染まらぬ清らかな華として、極楽浄土の池に咲く華でもあります。
私にとって蓮の思い出は、子供のころに外塀堀の遺構に蓮を植えようと、兄弟揃って汗をかいたのに、そこに希少な野生のハンゲショウの群生があるとは知らず、叱られ泣きべそをかいたことも良き思い出です。本音を申せば、蓮根がほしくて花より団子ならぬまさに華より蓮根でした。
さて、霊山本廟内の淨華堂(寺院・門信徒の個別納骨堂)の玄関ロビーには、「蓮華」の陶板レリーフが参詣者を出迎えてくれます。この「蓮華」は、京都近代画壇のみならず日本画界に功績甚大な菊池契月の大正六年の文展出品作品です。翌年、師であり義父にも当たる菊池芳文が死去するわけですが、恩師たる芳文に画風ともども惜別を送るが如くの味わいを、この「蓮華」に抱くのは私だけでしょうか。
池に浮かぶ一艘の小舟、女官らしき二人の女が舟遊びに興じているのか、平面ながらも池の広さをも感じる構図。蓮に比して多い華は、艶やかさとともに契月の心の華なのかもしれません。
この「蓮華」を仰ぎつつ心に浮かぶ風景は、今は面影を残すのみの東北・藤原氏の栄華の跡、毛越寺の広大な浄土庭園を見た時に感じた、当時の人々の切ないまでの欣求の極楽浄土であり、池の水面に咲き誇る蓮華を愛でながら、曲水の宴に興ずる儚き現世の享楽の哀れさに、時空を超えて胸の疼きを覚えたことでした。
私はこの淨華堂にて、極楽浄土という名の倶会一処の世界へ、一足早くお暇なさった肉親に、お礼を申し上げる参詣者に、「蓮華」の心を伝えていきたいと願っています。
最後に、好きな言葉を添えて、菊池契月に感謝を捧げたいと思います。
仏心の蓮華は胸にこそひらく
蓮如上人御一代聞書
菊池芳文・菊池契月親子のお墓は、ここ霊山本廟墓地にあります。
合掌
「故郷」2014年7月
兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川 夢は今も巡りて 忘れ難き故郷
「故郷」唱歌
長い間口ずさんでもいないのに、ふと思い出す忘れえぬ歌が幾つかあります。不思議なもので、年齢を重ねると自然と脳裏に焼き付いた景色が蘇ります。いずれにしても、懐かしい思い出とともに、穢されたくない心の原風景なのです。
さて、霊山本廟の朝は、鳥のさえずりにあわせて、毎日お勤めが始まります。勤行の最後を締めくくる廟堂にお参りする丁度その頃、廟堂の屋根の露盤宝珠の傍らより、太陽が昇ります。東山連峰のなだらかな稜線から来光した輝きは、おそらく古より幾多の人々が感じたであろう、時をも忘れる厳かな感覚に誘います。その光を身体一身に浴び、絶えることのない手向けの献花に眼を移せば、この廟堂にてお別れをし、また倶会一処の思いを抱いた方々の心に思いを馳せ、思い浮かべるのが長谷川等伯の「松林図屏風」です。
能登七尾の無名の絵師は、しがない絵描きを生業にしながら、当時主流画壇の狩野派の敵対心を煽るまでに伸し上がり、絶頂を迎えたその時おとずれた夢の崩壊。生涯を絵に捧げた等伯の言葉にならない無念を絵筆に込めて描きあげた心象世界とは。
幸いなことに、ここ霊山本廟に程近い智積院には、等伯の代表作「桜楓図」を含む大書院障壁画の数々が拝観できます。なかんずく将来を嘱望された若き息子久蔵の遺作「桜図」は、等伯「楓図」の啓発に応えるように花びらが乱れ咲いています。しかしその時「桜図」の巨幹とは裏腹に、一門を支えてくれるはずの久蔵の死という心の柱が倒木することになるのです。
その時等伯の胸に去来したものは、追い求めてきたものと反対の世界であり、遠く故郷の情景であったに違いありません。故郷の松林の澄みきった空気のなかに立ちこめる奥が見えない霧、時を止めながらも無限を感応する情景を、筆使いのみならずその抑えきれぬ荒い息遣いも聞こえてきそうな松の葉は、等伯の心情を映し込んだ鏡のような心象世界なのでしょう。
山は青き故郷 水は清き故郷 「故郷」の歌詞の最後は、私たちが抱き願う安らぎの世界です。しかし、五濁悪世の世に身を持ち崩し、人生を享楽することで背を向けて逃げる私に「松林図屏風」は、黙して語らずに諭してくれるのです。
合掌
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「わくら葉」2014年6月
青葉が目に眩しい季節です。霊山本廟の早春を告げた梅、そして、春を謳歌した桜の花が散ると、ツツジ、牡丹、サツキと、我あとに続かんとばかりに、色とりどりの花を咲かせて、参詣者の心を和ませてくれます。
まさに、命を燃やす自然の営みに、感じ入るわけですが、一方春は、葉の入れ替わる時期でもあり、新しい芽が吹くと言うことは、古い葉が落ちていくことを意味し、一本の木にも、命の循環があるわけです。
ふと生い茂る木々に目をやると、一本の枝の中にも、葉を広げようとする若葉、太陽を一身に受けようとする大葉と、命の息吹を感じます。なおも目を凝らすと、わくら葉があります。虫に食われたのか、病気なのか、はたまた春風に痛んだのでしょうか。
わくら葉は、病葉と書きます。夏の季語に使われますが、病気や虫のために変色し、枯れた葉のことをいいます。その語源については不詳ですが、「別れる葉」を当てる人もいます。また、「まれに」とか「偶然に」といった意味、すぐに散りゆく葉ですから、「哀れ」とか「儚さ」の対象にもなります。
青々と繁茂する葉の中の病葉。これを心の眼で見ると、浮かぶのは一点の静物画です。カラヴァッジョの「果物籠」は、美の一瞬を切り取ろうとした静物画の中に、枯れ朽ちる葉の徹底した現実描写で描きながら、画家本人の内面投影でもある故に、私の心を掴んで離しません。それは、おもわず手に取りたくなるほどの果物の持つ瑞々しさの中に、朽ちていく葉の質感まで感じ取れるリアリズム。私はそれに、画家の内なる憂愁の世界を感じ、心が揺さぶられるのです。
誰しも、健康、長寿、物の豊かさなどの幸せを求めますが、その中に儚き病葉を抱えています。人は、自己に内在する憂愁を、凝視するのをためらい、享楽に走るのに対して、木々の病葉は、全ての命の一部として、それとて愛おしむ青葉と共に、命の循環の中で立派に生きています。
今、悲しき別れを抱いたお参りの方に接し、初夏を思わせるこの霊山の地で、匂い立つような草木を眺めつつ、人生を有り難く沁み〲いただいています。
合掌