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第279回目のラジオ配信。「現代語訳されたお経でなぜ読まないの」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

いいえ、お経文は日本語にたくさん訳されていますよ。解説本の種類も豊富にあります。
読経は日本語でなくても、お坊さんの法話は日本語でお経のことをお話していますよね。日本語で伝わるようにしているはずです。
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。
前回はお経は聞いても何を言っているのか分からないよね。それはお経は1500年ほど前に訳された漢字の文章で、呉音で読んでいるからということを話しました。
そしてお話の最後で、「呉音で読むのは半ば仕方がないよね」ということを話しました。
すると、こんなことを言われました。
お経を今の日本人が読んで聞いて意味が分かる伝わるように現代語訳して、どうしてそれを読まないのですかと。
なるほど、ごもっともな意見のように聞こえます。
ただ私はどちらかといえば、現代語訳したお経を読むのはあまりおすすめしません。
今回はなぜ聞いて意味が分かるお経を読まないのかについて、私の思うことを話します。
理由は大きく二つあります。
一つは、お経は仏説だからです。仏説とは、仏さまのお言葉、金言のことです。
お経文は仏さまの教えが説かれたものです。
お経の言葉がもし今の時代にあうように現代語訳されたら、それははたして仏さまのお言葉なのでしょうか?
これから500年、1000年たった後のことを考えましょうか。
500年後、1000年後の人からすると、仮に今現代語訳されたお経をみると、意味がよく分からない古い表現だと思うかもしれませんね。
じゃあ、500年後、1000年後の人が今にあった言葉に訳していこうとなるかもしれません。
すると、意味は分かりやすくなるかもしれませんが、時代が進むにつれて、その時代にあうように訳されていくことで、仏さまの金言、仏さまが伝えようとしたこととは違ったものになるかもしれません。
私は訳されることで、仏さまの言葉、仏さまの教えが劣化・粗末・悪くなるとは言ってませんよ。
私が言いたいのは、仏説・仏さまの金言はなるべく形をかえずに味わっていくことが大切だと思っています。
また仮に現代語訳するにしても、それはそれで難しいものがあります。
どうしてもお経を訳す人、団体、またその時の時代情勢によって、お経の言葉が都合のいいように意図的に訳されたり、あるいは削除されたり、もしかしたら付け加えられる可能性だってあります。
そうなってしまったらはたしてそれは仏説なのでしょうか?
私は仏さまの金言であるお経文は、なるべく変えないほうがいいと思います。
もし今の時代にあっていない言葉がお経の中にあったとしても、仏説なのですから、後の時代の人が、これは不適切な表現だ、意味を変えようと、表現を変えよう、お経文の文言から消してしまおうとするのは、よろしくないなあと思います。
次に二つ目の理由を言いますね。
現代的な文章に置き換えて読むこと、意味の分かる言葉にして聞いて、はたしてそれが仏さまの言葉を理解することに本当につながっているのだろうかと疑問に思います。
聞いて意味が分かるお経と言いますが、それって何のため?なのでしょうか?
法事やお葬式でお坊さんが意味の分からないお経を言っていて、その内容を知りたいという理由で、聞いて意味の分かる言葉で読んでと思うのでしょう。
でもよくよく周りを見ると、書籍でも、インターネット上でも、現代語訳されたお経文、お経の中身を解説されたものはたくさんあります。
普段から、私たちの周りには意味が分かる状態になったものはたくさんありますよね。
現代人の私達が読むことができるお経はたくさんあるのに、お経は意味が分からないなんて言われるわけです。
お経の中身を知る・意味が分かる環境であるのに、お坊さんがお経を読んでいるときだけ、意味が分からないなんて言うんですよ。
ただしくは意味が分からないのではなくて、意味を知ろうとしてなかっただけではないのでしょうか。
いやいや、たとえそうであったとしても、意味の分かる形、現代語に訳されたお経の言葉で読んでくれた方が、聞いている人にとっていいよねと思われるかもしれませんね。
はたしてそうなんでしょうか?
浄土真宗のお坊さんの私は、聞いてまた見て意味が分かるのと、仏さまの言葉を味わっていくことはまた別だと思うわけです。
読んで、見て、意味が分かるから、それで仏さまの言葉
、教えが私の中にすっと入っていく、理解していくとは限らないでしょう。
例えば、私のいる寺、円龍寺はお寺の北がひらけています。
北にある道路から、スーパーマーケットから南に行った先にある道路からお寺の様子をほとんど遮るものなく見ることができますが、お寺があるのに気がついていない人がかなりいます。
目には見えているのに、見えていないんです。
見える状態になっていても、見ようとしていなかったらその存在を理解できないんです。
お経にも似たところがあると思います。
仮に意味の分かるお経が耳に入ってきたとしますね。でも耳に入っているだけで、仏さまの言葉・願いが私の中に入っているかと言うとまた別問題です。
お経は意味が分からなくてもいいんです。
意味が分からなくても味わうことができるんです。
仮に意味が分かる人がすくわれるのが仏さまの教えなら、仏教を学んだお坊さんたちからすくわれることになりますよね。そんなことはないでしょう。
たとえお経の文言が読めなくても、意味が分からなくても、仏さまは等しく救ってくださるでしょう。
浄土真宗では妙好人と呼ばれる人たちがその姿で示してくださっています。
妙好人には、文字の読み書きができない人も多くいました。しかしお経文を大切にし、仏さまの教えを聞いていました。
聞いて意味が分かるのと、私の中に仏さまの教えがすっと入ってくるのはまた別ものです。
現代では、書籍・インターネットなどで、現代語訳されたもの・解説されたものはたくさん手に入ります。
現代語訳された日本語のお経文をお坊さんが読まなくても、仏教を学ぶチャンスは皆さまいくらでもあります。
聞いて意味が分からなくても、お経文は仏さまの金言としてお勤めすることが大切なのではないのかなあと思います。

下のリンク先に、私が訳した仏説阿弥陀経を紹介しますね。
阿弥陀経にどんなことが書かれているのか知りたい方はご覧ください。
また2ページ目には、唐の玄奘三蔵法師による阿弥陀経の異訳(称讃浄土仏摂受経)の全文ものせました。
今私たちが読んでいるのは鳩摩羅什によって訳された阿弥陀経です。玄奘は鳩摩羅什の250年ほど後に訳しています。鳩摩羅什の訳と見くらべると玄奘のは文字数がほぼ倍になっているのに、分かりにくく読みにくくなっているように感じませんか?
なぜお経は日本語に訳さないのか?