僧侶のかっけいです。
「仏の子のちかい」という詩をご存知でしょうか。
- 仏の子はすなおにみ教えをききます
- 仏の子はかならず約束をまもります
- 仏の子はいつも本当のことをいいます
- 仏の子はいつもにこにこ仕事をいたします
- 仏の子はいつもやさしい心を忘れません
「仏の子のちかい」より
ご存知の人は、幼いころ日曜学校に通ったり、お寺のイベントに参加されてきた人たちでしょう。
今でも私の住む町では、花まつり(お釈迦さまの降誕会)の時に、子供たちとともに唱和します。
「仏の子(ほとけのこ)」とはどういう意味でしょうか。浄土真宗僧侶の私が思うことを書いていきます。
「三帰依」は仏教徒の誓いの言葉
- ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
私は仏に帰依したてまつる「南無帰依仏」- ダンマン・サラナン・ガッチャーミ
私は法に帰依したてまつる「南無帰依法」- サンガン・サラナン・ガッチャーミ
私は僧に帰依したてまつる「南無帰依僧」「三帰依」より
三帰依とは2500年ほど前から仏教徒が大切にしてきた言葉・宗教規範です。
仏教はさとりをひらかれた「仏」とその教え「法」とその仏法を求め伝えていく人たち「僧」を宝としています。
この3つが欠けている状態では、仏教徒とは言いにくいです。しかしいきなり「仏・法・僧」の三宝に帰依しなさいよと言われてもそれは難しいところです。口にしても心が追いつかないです。
三帰依には、真宗徒のみならず仏教徒としての基本的な味わいあります。
- 生まれがたい人としてのいのちを賜ったこと
- 聞きがたく遇いがたい仏法にであえたこと
- その上で、仏法僧の宝を大切にし、ともに生活していくこと
仏教の誓いの言葉は、仏教がはじまってからこのかた、人々がともに生きていくための生き方となります。私たちの理想とする姿です。
仏の子の意味することは何か
『食べてすぐ寝ると牛になる』
現代でこんな言葉を言っても、鼻で笑われるかもしれません。
しかし牛になるというのは、畜生になるということを意味しています。
人間と畜生の違いはなんでしょうか。
極端なことをいえば、畜生は本能のまま生きる生き物です。思いやる心をもたずにおらびあう生き物です。一方で、人間は自己中心な考えをするが自分を律することもできる生き物のことです。
私たちは人間だから人間らしく生きているのではありません。
動物(畜生)のもとで育てられたなら、動物(畜生)のような人になります。
人間のもとで育てられたなら、人間のような人になります。
それと同じように仏の子とは、仏様に育てられた人間は、仏様のような人になるということです。
もっと詳しく言えば、仏さまに手を合わし、仏さまの誓い・願いに出あえた人たちは、自己中心の生き方ではなく、仏さまの見方によって生きられる人になるということです。
これが仏の子です。
仏の子は、子供だけではなく大人もさします。仏さまとのご縁を大切に頂く人たちは皆、仏の子なのです。
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仏の子は「自分」と「他人」を知るということ
「仏の子のちかい」は日曜学校や花まつりなど、子供たちの集まる場で口にすることが多いです
「仏の子のちかい」は「三帰依」と同じく、私たちが目指していく約束事・ルールが書かれています。三帰依よりも分かりやすく、生活にそくして説かれているのが仏の子のちかいです。
仏教には、生き物を殺してはいけないや盗んではいけないや嘘をついてはいけないなどの戒めがあります。これらの戒めは他人との関係を保つため、もっと言えば、自分勝手な生き方をしないためです。
- 仏の子はすなおにみ教えをききます
- 仏の子はかならず約束をまもります
- 仏の子はいつも本当のことをいいます
- 仏の子はいつもにこにこ仕事をいたします
- 仏の子はいつもやさしい心を忘れません
「仏の子のちかい」より
仏の子のちかいを守ることは、決して簡単なことではありません。子供だけでなく大人も守ることはできないでしょう。
しかし守れない内容だから誓いを軽んじたり、自分や他人を責める必要もありません。
大切なのは仏さまとの約束を破ってしまった自分と向き合うこと。そして約束を破り他人を傷つけてしまったことをかえりみることです。
仏の子とは、仏のような人となることです。仏のような人とは、自分自身と向き合い、他人へのまなざしを持つ心のことです。
人間は人と人とがともに生きることでなりたちます。
仏教誓いの言葉は、ただ仏さまを敬うことではありません。
自分たちが仏さまにかげながら育てられてているよろこびの言葉であり、私たちが自分と他人を深く知り、ともに生きる世の中を目指しています。
大人も子供も仏の子です。