こんばんは。 僧侶のかっけいです。
今日法事にお参りに行きますと、雑談の中でお勤めについて質問されました。
「真言のお坊さんとはお勤めがぜんぜん違うな~」と言われました。
「真宗の法事は長いですね~」とも言われました。
その中で読経の経本が違っている理由、真宗でも般若心経をお勤めするのかなどなど僧侶からすれば、常識的なことでも一般の人にとっては、知らないことだらけと言うことに気が付きました。
今回は、宗派によってお勤めする際のお経本がなぜ違っているのか説明します。
まずは前置きからです。
お経本とはいつごろから存在しているのか。
お経本とはお釈迦様が生きていた時代にはなかった。
意外と思われるかもしれませんがお釈迦様が存命の時にはお経本は無かったんですね。
でも考えてみますと、キリスト教やユダヤ教の新(旧)約聖書も宗教として成立したときからあるのではなく、徐々に書き足されてきているのですね。
仏教経典とよく似た成立をしているのはイスラム教のコーランだと思います。
コーランは唯一神のアッラーから最後の預言者とされたムハンマドが、神様からの教えを信徒たちに伝えていたのですね。そしてそれは口伝で広まっていったとされています。
話を戻しますと、そもそもお経本とはお釈迦様がお話になられたことをまとめたものです。
そしてお釈迦様が存命中には文字化・書物化されていませんでした。
今の時代感覚では不思議に思えるかもしれませんが、昔は尊い人のお話というのは書いて覚えるのではなく、聴いて覚えていくものでした。文字にするのは失礼だという感覚だったのかもしれません。
これは印刷技術が発達する時代になるまで中国でも日本でも考え方が繋がってきています。
例えば、インド(天竺)から多くの仏教経典を書き写し持ち帰った方に玄奘三蔵法師がいますね。
この玄奘というお坊さんはインドに行ったからたくさんの経典を持って帰れたわけではなく、非常に優れたお坊さんであったからですね。当時のインドで有名な高僧である戒賢に認められ、またインド各地の仏跡を尋ね、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナにも講義ができるほどの人物だったのです。
大切なお話が記された書物というのは書き写す人の能力が備わってはじめて、写経が許されるものなんですね。本来は。この人物なら間違いなく教えを内容を伝えてくれるという思いが師弟の間でできると師から写すことを許されるんですね。
日本では有名な人物でしたら空海と最澄ですね。
最澄が空海に理趣経の解説本『理趣経釈(りしゅきょうしゃく)』を借りようとお願いしたのですが、空海には最澄がまだ密教の根本原理に触れるのには相応しくないと考え、断ったんですね。
浄土真宗でしたら親鸞と法然の関係ですね。
親鸞聖人は元久(1205)に法然上人から、法然著書の『選択本願念仏集(選択集)』を書き写すことを許されています。このとき親鸞聖人は法然上人の下で学ぶようになってからわずか4年のことでしたが、念仏の教えを、親鸞聖人はしっかりと信受できていることを、法然上人から認められたということになります。
法然上人の数多くの直弟の中でも、親鸞聖人の外には、隆寛や証空などわずかに10人程度が知られているだけの法然が最も信頼していた人たちでした。 法然自身、『選択集』の末尾では、読み終わったら、後は壁の底に埋めて、窓の前に遺すことはしてはならないとされています。つまり、法然聖人が説かれている念仏の教えをきっちりと理解した人に対してのみ、書写を許されたということのようです。
真宗では他にも有名なことでしたら、親鸞聖人の弟子唯円がかかれたとされる『歎異抄』があります。これは現在原本がなく、最古の写本は蓮如上人が写したものになります。
この最後の奥書には次のように書かれています。
右斯聖教者為当流大事聖教也
於無宿善機無左右不可許之者也
釈蓮如 御判
簡単に訳すと、「この書物は真宗教義にとって非常に大切なことが書かれているのですが、阿弥陀様の教えに出遇い、信心をいただいたものでなければ、むやみにいたずらにこの書物を見せてはいけない。」と記されています。
そのためこの歎異抄とは明治になるまで真宗各本山で禁書のように大切に納められていた本になります。
余談が長くなりましたが、話をまとめますと、
お釈迦様がいた時代にはお経本がなかった
ではいつからお経本があるのか。
お経本はお釈迦様の死後に編纂された。
上で説明しましたようにお釈迦様が生きている時代にはお経本というのはなかったのです。
大切な方のお話というのは文字に起こすというのが失礼だったからだと思われます。そして体で覚えることでその教えを常に自分の中で保ち続けることができるからです。
お釈迦様在世のころは口伝によって、人から人へとお釈迦様の説法が伝えられました。そしてお釈迦様がいる所には僧伽(さんが)として多くの人がお話を聴こうと集まっていました。そしてそこには精舎が建てられました。
しかしお釈迦様が亡くなられた後はお釈迦様のお話の内容が正しく伝わられなくなるようになったため、仏典が編纂されるようになりました。
歴史上には何度もあったとされますが、代表的なものはお釈迦様が無くなってすぐの第一回仏典結集です。これはお釈迦様十大弟子や菩薩以上の人が集まりお釈迦様のお話をまとめられたとされています。有名な人物では頭陀第一の摩訶迦葉、持律第一の優波離、そしてお釈迦様のお話を一番よく聞いてきた多聞第一の阿難がいました。
漢訳経典には「如是我聞」や「我聞如是」と書き始めているのは主に阿難尊者が私は釈迦如来からこのような内容を聞きました、と始まることが多いのです。そしてその後にはたくさんの人物の名前が書かれています。これは仏典を編纂するときに集まった人物の中で、この経典の話を私も聞いたあの有名な人物も聞いていましたという風に、この仏典の内容の正確さ・信憑性を高めているのです。もちろんお話になった場所や聴衆の人数も記されています。
まとめますと、
お釈迦様の死後、個々人の記憶として残っていた教えが、人や時代が移っていくことで、間違った伝わり方をしたり、異説が出てくるのを防ぐために経典を記すようになりました。
伝言ゲームを想像したらいいですね。ある言葉を人にどんどん伝えていこうとすると、最後には元と全く違った内容に変化してしまっていますね。
仏経経典ではこの教えが誤って伝わることを恐れたのです。
ではなぜお経本にはたくさんの種類があるのか。本題に入ります。
お釈迦様の説法の特徴。
お釈迦様のお話の仕方にはある特徴があります。
「対機(たいき)説法」or「隋機(ずいき)説法」
対機説法や隋機説法は同じような意味で使われますね。
お釈迦様は釈尊自身からお話をすることがほとんどなかったのです。
説法をするときには必ず悩める人が釈尊に助けを求めて、それに対してお話をなさっていたのです。そしてその人物の能力・境遇などに応じてお話のレベルや内容を変えていたのです。
ですので同じような内容のお話でも、話の聞き手、場所、タイミングなどによって話の構成・伝え方が違ってくるのです。
私たちでも同じことが言えますよね。
例えば、「今日すき焼きをするから食料品店で買ってきて。」というとき、家族に伝えるときにはこれで伝わるでしょう。
しかし、友達同士だと、どこの食料品店で買えばいいのか、価格は、材料は、場所は、時間は等々説明することが増えますし、珍しい具材をいれるときにはそれの説明をしないといけません。また仮に目上の人だと、もっと丁寧にお願いをしないといけませんね。
同じようなことを話すときでも話の構成が全く違ってくるのです。
そのためお釈迦様の説法は「八万四千の法門」とも呼ばれます。本当に八万四千もあるというのではなく、それだけ数が多いという例えです。つまりお釈迦様のお話になった内容はとてつもなく多いということです。これが今日たくさんのお経がある理由のひとつです。
なぜ宗派によってお経本が違うのか。
お釈迦様の説法が隋機説法というように、聞き手によって話の内容を変えていることを説明しましたね。
しかしその話には質問をしてきた人の悩みを解決するように説法しています。
そしてお釈迦様自身も悟りを仏陀になってから五十年近くも布教の旅をしていました。そのなかで似たようなお話も出てきますし、ニュアンスも微妙に変えて話をしています。
宗派というのは何が異なっているのか。
仏教の教えを一言で表すなら、悟りを得ることです。(悟りと簡単に言っていますが、誤解しやすい言葉ですので、悟りがどういう状態なのかは別の機会にお話しします。)
しかしその人々によって、救われる方法・手段が能力や境遇によって違ってくるはずです。仏様でいえば、こちらの方は阿弥陀仏、こちらは薬師仏・廬舎那仏など、もしくは観音菩薩や勢至菩薩、地蔵菩薩など、人によって救われる仏様や浄土を変えて説法しています。
宗派というのは私たちが救われる仏様やお浄土のお話をされていて、それぞれが悟りに到達することを述べているのですが、手段も教えも異なっているのですね。
このことはよく山に登ることに例えられます。
例えば、こちらの教えではゆるやかなで舗装された道を歩くことができる。こちらは距離は短いけれでも崖のような道を登らないといけない。もしくは登り口が北と南で全く違っていたり、ピッケルを持っていたり、道具を何も持っていなかったりと、一つの到達点に至るまでにもその人に応じて、道筋・状況が違っているのです。
仏様の違い・救われ方の違い、これが宗派の違いになってきます。
所依の経典(しょえのきょうてん)とは何か。
所依とは、物事・教えの拠り所という意味です。つまり何に頼っているかということです。
各宗派にはそれぞれ所依の経典があります。
それはそうでしょう。仮に西方浄土(極楽浄土)にいるとされる阿弥陀仏を信仰している人が大日如来について書かれている経典を呼んでいたらおかしくないですか。
お釈迦様の説法は数限りない量のお話があるのですが、その中で私たちにとって伝わりやすい間違っていないものが現在残っています。
なぜかと言うと、上で説明したようにお釈迦様が生きていた時代には経典がなく、そののちにまとめられるようになりました。その後、翻訳家によって訳されたのですが、訳者によって微妙にニュアンスが異なってくるんですね。その中で祖師や高僧に当たる人がこの仏様の教えを正しく伝えているのがこの経典だと示されているのです。
例えば、阿弥陀仏を本尊とする真宗では、浄土三部経として「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」があります。どれも無量寿仏(阿弥陀仏)について書かれています。しかし今日私たちがお勤めしている仏説無量寿経はこれまでに12回訳されています。その中で浄土系の高僧たちは三蔵法師の康僧鎧の訳が一番素晴らしいとしているのです。
これが真言宗だと所依の経典が「大日経」、「金剛頂経」、「理趣経」が読まれますし、日蓮宗や天台宗ならば「妙法蓮華経」が読まれますね。
般若心経は浄土系の宗派以外で読まれています。
各宗派の僧侶はそれぞれの所依の経典をお勤めしている。
所依の経典が違うので、阿弥陀仏の浄土真宗は真言の経本をお勤めしないんですね。
真宗僧侶が仏事でお勤めするのは先ほど述べた浄土三部経ですね。ついでにこれが誰を聞き手に話をしているのか説明します。
仏説無量寿経
聞き手:多聞第一の阿難尊者
場所:王舎城の耆闍崛山(霊鷲山)
なぜ話をしたのか:阿難が釈尊の様子が今まで見たことがないほど素晴らしかったから。その理由を知りたかった。
仏説観無量寿経
聞き手:マガダ国の王妃、韋提希夫人
場所:王舎城の牢
なぜ話をしたのか:韋提希が自身がなぜこのような境遇になってしまったのか。このような私でも救われることができるのか。
仏説阿弥陀経 (無問自説経)
聞き手:智慧第一の舎利弗
場所:舍衞國の祇樹給孤獨園(祇園精舎)
なぜ話をしたのか:この阿弥陀経は釈尊が誰かにに尋ねられて説法をしたのではなく、釈尊自身が自ら話したのである。その時に何度も声をかけられたのが舎利弗という十大弟子のひとりであった。釈尊が阿弥陀仏の名前の所以、阿弥陀仏の極楽浄土の様相を述べられている。そして阿弥陀仏の教えはお念仏であることがすすめられている。
まとめ
お釈迦様は相手に応じて、話の内容を変えていたのでお話の数が増えていったのですね。似たような話はしても同じ話はしなかったのです。
各宗派にはそれぞれに違った仏様が御本尊になっていて、それぞれに教えが異なっています。
各仏様にはそれぞれの浄土があり、そこに至るまでの内容が経典によって異なっています。浄土真宗ではインドから中国・日本に伝わる歴史の間に高僧によって所依の経典が3つにまとめられています。そのため浄土真宗では阿弥陀様について書かれてている浄土三部経を中心に仏事でお勤めしています。ですので真言宗の僧侶がお勤めしている経典は読経しません。
長いor短いのはお経本の文字数の違いであって、長さによって良い悪いというものではありません。早く読めば阿弥陀経でも十分以内に読めますよ。
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さいごに
田舎の真宗僧侶の仏事は結構長いんですね。
間で中休みと言って休憩、雑談時間があるんですね。
ここで色んな世間話や質問をされます。その結果お坊さん二人でお勤めする普通法事でも二時間くらいの時間がかかってしまいます。
そうすると、もうちょっと短くお勤めしてほしいとか、いいところだけお勤めしてほしいとか言われますが、難しい話ですね。
短くと言っても真宗の所依の経典を読誦しているので、他の経典を読むわけにはいきませんね。それにいいところといっても仏様の金言の経典にいいところも悪いとこをもあるわけがないですよ。要のところはありますが、そこだけ読んでどうするんですか。
昔は法事でも日を跨いで勤めていたので二時間程度で終わるのでしたら、そんなに長くもないと思うんですけどね。
まあ浄土三部経といっても法事では経典以外に、念仏や回向、表白などなどいろいろなお勤めをしているので、より長くなってしまっているんですけどね。真宗だったら三部経の代わりに「正信念仏偈(正信偈)」をお勤めしたりすることもあります。
また別の機会には阿弥陀仏について書かれている浄土三部経を紹介できればと思います。