真宗僧侶のかっけいです。
浄土真宗では「聞法(もんぽう)」という言葉をよく勧めています。単純な意味としては「しっかりと阿弥陀さんの話を聞きなさいよ」ということです。
ですので門信徒の人達はお寺の法要では布教されているお坊さんの話を熱心に聞きますし、家でする年忌法事ではお坊さんが読経後に振り返ってお話をしますよね。
しかしお坊さんの私がお話をしながら感じてしまうのは、ほとんどの人が下を向いて面白くなさそうに話を聞いているんですよ。もちろんそれは私の話術が下手というのもあるのですが、一方で浄土真宗の教えがなかなか理解しにくい・身にしみにくいからではないだろうか。
皆さんがイメージしているような仏教の教えではないので、浄土真宗のお坊さんの話を聞いても「なんだこれ」と思ってしまうのではないだろうか。いやひょっとすると浄土真宗という仏教宗派が、その名前の響きから、死後あの世での教え・死者を弔うための教えと勘違いされるかもしれません。だから生きている自分には関係が無いのだと。
浄土真宗の教えはちょっと特殊に感じてしまうのか、お坊さんの話を聞いても一度や二度ではまったく納得できないかもしれません。
そんなことを今回は書いていきます。
浄土真宗の教えは生きている人に聞いてほしい
「えこう」という言葉を聞いた事がありますか。
エコー(反響)という意味ではないですよ。仏教では「回向」と書きます。まわる・むかうということですが、通仏教と浄土真宗ではだいぶ考え方が違います。
例えば、浄土真宗のお坊さんもお勤めをしますが、それは決して「亡くなった人のために供養している」のではありません。
一般的なイメージで回向といえば「追善回向」のことをさすでしょう。亡くなった人のために、生きている人が何かしてあげようと力を振り向けるということです。
しかし浄土真宗では「如来回向」をさします。これが理解されにくいのでしょうが、浄土真宗が亡くなった人のために供養しないことや生きている私のための教えであることが、如来の本願力回向によりわかるのです。
浄土真宗の回向とは2種類あります。
- ひとつは往相(おうそう)です。
- ひとつは還相(げんそう)です。
往相回向とは阿弥陀仏の願われたはたらきにより、自分の力ではさとれない人を仏さまの世界に導いてくれるということ。
そして還相回向とは仏の世界に向かわれた人が諸仏として私たちの世界にかえり、守り導いてくれるということです。
浄土真宗の回向とはすべて仏さまからのはたらきなので、生きている私たちが何かをしてあげるのではなく、その回向のめぐみを有難うございますと聞きいただくのが大切なのです。
ですから浄土真宗のお坊さんの話がなんかピント外れな話をしているなあと感じてしまうのは、話の対象が「亡くなった人(諸仏)」ではなく、「生きている人(いのち・めぐみに気が付く人)」であるからです。
お坊さんの話を聞く姿勢がまず正しくないので、お坊さんの話がつまらなかったり納得できなかったりするのです。繰り返し言いますが、生きている私たちが聞かなければ非常にもったいないのです。
浄土真宗の話は特殊すぎるのか?
少し前に私は『浄土真宗のお坊さんは非常識?変?』というタイトルで浄土真宗と他宗の違いを書きました。
浄土真宗の儀式作法はそんなに派手なことはしません。さらには浄土真宗のお坊さんの中には、お酒を人前で飲んだり髪が伸びていたりと、一般の人がイメージする僧侶像とは異なっているのかもしれません。それこそ生臭坊主と言われるかもしれません。
『なんか坊さんらしくないなあ』・『言っとることも先祖供養の話じゃないなあ』・『信心や念仏とか願いとか分かりにくい話やなあ』と何か物足りない、頼りないという印象を持つかもしれません。
しかしそれは浄土真宗の話のレベルが特殊すぎるからではありません。
そのように物足りないなあと感じてしまうのは、「何でも自分一人で解決できる」と考えているからではないでしょうか。
しかし浄土真宗では回向は阿弥陀仏からの向けられためぐみであり、悩み苦しみのある人生を生き抜く教えです。
浄土真宗は他宗と違い特殊な教えなのではなく、「自分の力で」から「ほとけさまからのはたらき」をそのままいただいていく教えです。にもかかわらず、聞いている側は、何か人生の役に立ちそうな話を望んでいるので実益がないなあとつまらなく感じたりします。
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真宗の話が納得できないのは自分の意見とぶつかるから
阿弥陀さんの教えは「易行難信」と言われ、教え・考え方は単純にわかりやすく行うのは簡単なのですが、いざ実際に信じて実践することは難しいのです。
阿弥陀仏が自分の力ではどうすることもできない人のために、ただ阿弥陀仏の念仏を口にし、阿弥陀仏の信心をいただくことを呼びかけているのですが、その仏様の計らいをそのまま受け取ることができないのが人間なのです。
よく「自力」と「他力」の話がありますよね。自力が自分の力ですること、他力が仏様のはたらきというのはここでは説明しません。
自力というのはあってもいいんですよ。でも浄土真宗の話を聞くときには自力が不要なんですよ。なぜなら阿弥陀仏の願いというのはすべて他力だからです。私たちはそれをそのまま頂いて、仏様の呼び声を聞いてお念仏を申すだけなのです。
人間というのは自分の力を過大評価しているので、自分の価値観を絶対に捨てません。
私はとある布教使の先生から「聞法」の仕方を教えてもらったことがあります。
- 自分の主張・計らいを横に置いて聞く。
- 話をそのままの気持ちでとりあえず聞く。
- すべて聞いた後で、自分の考えとすり合わせる。
- すり合わせていく中で疑問に思ったことをたずねる。
自分の意見に100%合う話は聞いていて気持ちがいいでしょう。そうだそうだと頷くだけなのですからね。
でも宗教の話、他力の話をする浄土真宗の話を聞くときには、自分の意見をとりあえず捨てて聞いた方がいいです。自分の考えを持った状態だと素直に聞くことができないからです。
阿弥陀さんのお手計らいをそのまま受ければいいのに、聞く側が腕組みをしていればいつまでたってもいただけません。納得できない・面白くない・眠たいとふんぞり返ったりうつむいたりと話を聞くことができず、ひいては信心をいただくのが難しくなるのです。
浄土真宗の教えをお坊さんが話しても納得できないのはなぜか
それは生きている人のため・自分のために向けられた話だと気が付いていないから、そして自分の価値観を手放すことができないので仏様の話を素直に受けられないからです。
自力や他力やそんな難しいことを思いながらお坊さんの話を聞く必要はありません。
しかし浄土真宗では自分の力で何かを成し遂げなさいと強制する教えではないので、もうちょっとリラックスした状態でお坊さんの顔を見て聞いてほしいところです。
何か得しようと聞くのではなく、自分に対してどんなことを呼びかけているのだろうかと興味を持って聞いていただければ、お坊さんの話が少し面白くなるんじゃないかな。