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第69回目のラジオ配信。「超日月光」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
この前の11月17日に配信した65回目のラジオで、阿弥陀仏の12種類の光のなかで、超日月光が私の一番好きな光だと言いました。超日月光とは、太陽や月の光を超えた太陽や月よりも優れた光ということです。
今回は、なぜ超日月光が私のお気に入りなのかという内容でお話していきます。
お気に入りの理由は、わかりやすいということです。
他の、無量光無辺光無碍光無対光光炎王光清浄光歓喜光智慧光不断光難思光無称光はどれもこれも抽象的なたとえで、イメージしにくくないですか。
- 量に限りがない
- どこまでも照らす
- さえぎられない
- 比べられない
- すっごく明るい
- 清らかな
- よろこびの
- 智慧の
- 絶えることのない
- 思いはかれない
- 言い尽くせない
どれもアバウトな言い方ですが、最後の12番目だけは太陽と月よりも優れた光って、唯一具体的な例を挙げていますよね。だからイメージしやすいので、私は超日月光が好きです。
そもそも太陽・お日様ってどんなものでしょうか。
昼、太陽があるおかげで世界を明るく照らしてくれますよね。それに朝、太陽の光を体に浴びると、すがすがしい気持ちになりませんか。太陽がさんさんと明るく光を注いでくれたら、体も暖かくなって、植物も元気になりますよね。
月はどんな物かと言えば、夜の暗闇を柔らかく照らしてくれますよね。太陽ほどは明るくなくても、太陽が沈んだ後の夜の時間を照らしてくれますね。
太陽と月が無かったり弱い光だったら、私たち困りますよね。無くてはならないのが太陽と月の光です。
でも仏様の光は、その太陽と月よりもさらに優れた光なんだそうです。
太陽ってとっても素晴らしい存在ですが、いざ太陽を拝んでみようと思ってもまぶしくてまぶしくて、直接見ることはできませんよね。それに雲に隠れると途端に薄暗くなって、太陽の光が届かなくなります。
冬は暖かくていいなあと思っても、夏はぎらぎらと輝いて暑苦しくて、うっとうしく感じることもありますね。
月もとっても素晴らしいですが、月自体が光っているわけではないですし、月が隠れて真っ暗な夜というのもよくありますね。
夜を照らす月があると心が落ちつきますし、月が出てくれてありがたいなあと思う一方で、月が欠けてあんまり役に立っていないなあと思うときもあります。
そんな風に、太陽と月の光は私たちの日常・身近な世界を照らしてくれてはいるんですけども、ちょっとオーバーなところがあったり足りないところがあったりするんですね。
そんな長所・短所のはっきりしている太陽や月よりも優れているのが、仏様の光なんですね。
超日月光の仏様の光は、昼や夜の区別なく、あらゆる角度からかたよりが無く、まぶしすぎて拝むことができない光でもなく、薄暗くどこだどこだと探し回る必要もない光なんですね。
それが太陽や月よりも優れた光です。
仏様の中には大日如来という仏がいますね。大日如来は、太陽の光とは比べられないほど活発で、いつまでも照り続ける偉大な光を放つ仏様ということです。
でも阿弥陀様はちょっと違うんですね。阿弥陀様は太陽そして月よりも優れた光です。それはごうごうと明るく激しく燃えるだけでなく、あらゆるところにくまなく隅々と照らしてくださり、また月の光のようにやさしく、太陽の光のように明るく照らしてくださってます。
それが阿弥陀様の素晴らしい光、超日月光です。
仏教には月愛三昧(がつあいざんまい)という言葉があります。
これはインドのマガダ国のお話で、アジャセ(阿闍世)王が父の頻婆娑羅王を幽閉し殺害し、体中に腫物・皮膚病が出て苦しむお話です。
体中の腫れ物ができ悪臭を放つようになり、父を殺したことを悔いるようになります。
大臣の多くはアジャセ王は悪くないと言いますが、医者でもあった耆婆大臣だけは、自分の行った過ちを素直に認めることをすすめ、お釈迦様に会いに行くことを助言しました。
苦しみの中にいたアジャセ王はお釈迦様に会いに行きました。
アジャセの苦しむ様子を見たお釈迦様は、ただ黙って瞑想にはいります。
すると不思議なことにアジャセの腫物はおさまり、痛みもなくなりました。
お釈迦様がされたのは、阿闍世に対して罪を責め立てるのでなく、やさしい月の光のようにただ慈悲の光を注いでいったのです。
この月愛三昧はお釈迦様の特別な力で病を直したんだよと言っているのではなくて、仏の光、智慧慈悲にはその人のもつ闇、犯した罪を残したままで、優しく照らし、問い詰めることなく、苦しみの中にも、いっしょにそばにいてくれていることを意味します。
仏さまは深く瞑想し、人はその仏様の限りない智恵・慈悲の光にいだかれているのが、この月愛三昧です。
ただごうごうと明るく照らすだけでなく、暗い夜の世界でも、足下を照らしてくださる月のようなやさしい光を放つのが仏の光です。
この音声を配信する12月15日は新月で夜は暗いことでしょう。でも仏様の光はいつも照らしてくれます。
2020年の大晦日は雲が無ければ満月のような明るい夜だと思います。
コロナ禍の今年の大晦日は、除夜の鐘や初詣に外に出られるかわかりませんが、もし月を眺めることがあれば、仏の光はこのお月様よりもやさしくいつでも輝いているんだなあと、超日月光の仏さまを思い起こしていただけたら幸いです。
さいごに、浄土宗の宗歌を紹介してお話をしめます。浄土宗の宗祖法然上人が作られた、阿弥陀仏の光のはたらきを詠んだ歌です。
月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ
意味は、
月の光は里全体をくまなく降り注ぎ照らしているけれども、月を眺める人以外には、その月の存在・美しさ・ありがたさはわからない。
阿弥陀仏の智恵・慈悲の光は、すべての人々に平等にやさしく注がれているけれども、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と仏様の方を向いてお念仏を称えないとダメですよ。
ということを言っています。
浄土宗宗歌「月影」と真宗宗歌
浄土宗の宗祖である法然上人は生涯に23首の和歌を作られました。その中でも現在最も有名なのが、浄土宗の宗歌になっている「月影」の歌です。
参考にyoutube動画から、「月影」が歌われている上宮高等学校校歌を掲載します。
真宗宗歌は、1923年の浄土真宗の立教開宗700年にあたり、真宗十派が真宗各派協和会(現在の真宗教団連合)を結成し、毎日新聞を通じて作詞公募したさい、大谷派の僧侶土呂基によって作詞されました。作曲者は島崎赤太郎(東京音楽学校・現東京藝術大学の教授)。
これも参考にyoutube動画から掲載します。配信者はpakasannです。
真宗宗歌の歌詞 1 ふかきみ法(のり)に あいまつる 身の幸(さち)なにに たとうべき ひたすら道を ききひらき まことのみ旨(むね) いただかん 2 とわの闇より すくわれし 身の幸(さち)なにに くらぶべき 六字のみ名を となえつつ 世の生業(なりわい)に いそしまん 3 海の内外(うちと)の へだてなく み仏(おや)の徳の とうとさを わがはらからに 伝えつつ 浄土(みくに)の旅を ともにせん
「月影」は法然が詠まれた和歌のように、浄土真宗では宗祖親鸞聖人の書き残された「恩徳讃」をお勤めの後によく拝読します。
これもyoutube動画より掲載します。配信者は真宗大谷派浄覚寺です。
恩徳讃は親鸞が86歳のときに書かれた『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』の結びの和讃です。
この和讃は、もとは師の法然の六七日の中陰法要において、兄弟子の聖覚(せいかく)が読み上げた表白文「つらつら教授の恩徳を思えば、実に弥陀の悲願に等しきものか。骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし」によるとされています。
恩徳讃の歌詞 如来大悲の 恩徳は 身を粉にしても 報ずべし 師主知識の 恩徳も 骨をくだきても 謝すべし
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超日月光の和讃
超日月光この身には
念仏三昧をしへしむ
十方の如来は衆生を
一子のごとく憐念す
浄土和讃より
現代語訳
阿弥陀如来(超日月光仏)は勢至菩薩にお念仏を教えられました。
お念仏の教えを受けて十方のあらゆる仏様は、あらゆる一人ひとりの衆生を、わが一人子のように慈悲の心より寄り添ってくださっています。
十二の如来あいつぎて
十二劫をへたまえり
最後の如来をなづけてぞ
超日月光ともうしける
浄土和讃より
現代語訳
阿弥陀仏の光明、「無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・光炎王仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏」の12の尊い光の仏が、12劫の間、あいついで出現された。
最後に出現された仏が、超日月光の仏である。
光明月日に勝過して
超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなほつきず
無等等を帰命せよ
浄土和讃より
現代語訳
阿弥陀仏の光明は、この世の太陽や月よりも超えて勝れているので、超日月光と名づけられています。
阿弥陀様のその光明を、お釈迦様が言い尽くせないほどほめたたえている。
この等しいものがなく、比べるもののない素晴らしい阿弥陀如来の救いにおまかせしましょう。
超日月光は『正信偈』に登場する言葉です。仏説無量寿経に説かれた、太陽や月よりも優れた阿弥陀仏の光明のはたらきです。
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