こんばんは。 浄土真宗僧侶のかっけいです。
仏教と言えば「修行(しゅぎょう)」というイメージを持つ人は多いのではないでしょうか。
しかし一方でお坊さんのことを生臭坊主(なまぐさぼうず)という揶揄する言葉もあります。
生臭坊主とは、肉食や妻帯などの一般の人と同じような生き方をしている僧侶に対しての言葉です。「あの人戒律、守ってないやん。生臭やわ~」とね。
仏教を始め、あらゆる宗教・あらゆる習俗・あらゆる組織には大なり小なり「戒律」なるものがありますが、実際には戒律(規律・ルール)を守ることなんて難しいのが現実ではないだろうか。
今回は「自分を律する・自戒することの難しさ」をテーマに書いていきます。
【前置き】お寺はなぜ山にあるのか。あったのか。
お寺には「○○山□□院△△寺」という正式名称をもつ寺があります。
例えば比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺が有名ですね。
今でこそ日本各地に寺院が数多くありますが、中国に仏教が伝来した時や、日本に仏教が伝来ししばらくすると山に寺が建立されるようになりました。
それは仏道者・出家者が修行するのにあたり、その修行の場を世俗的な場所から離れた所にした方がより相応しいと考えたからです。(もちろん山岳信仰との融合もあったでしょう)
もしもお坊さんが自分を戒め・自分を律することができる人間であるのであれば、わざわざ修行をする場所を人里離れた山にする必要はなかったのではないでしょうか。
それぐらい自分を律し、自戒するのは難しいと感じていたのです。
最近聞いた信じがたい話。
私は最近ビックリした話があります。
法事の後のお食事でお参りの人とお話をしていた時です。
聞くと今から15年ほど前のことだそうですが、お葬式の時にお坊さんに250万円も支払ったんですって。
お坊さんの私からすると、いったいどんな経緯があればそんなことになるんだと思うのですが、都会の方であったりとある宗教ではそれくらいの金銭を要求することもあるんだなあとも思いました。
もちろん布施ですので、納得した上でお寺に仏様に供える金銭だったのであれば金額の大小は気にする必要はないのですが、ただやはり私の中での常識で考えればその金額の10分の1でも結構しているなあと思います。
ただもしもですが、お坊さんの方から葬儀のお布施は250万円ですよと宣言したのであれば、私はちょっとそのお坊さんのことを疑ってしまいます。
浄土真宗は修行をしない宗派と言われがちである。
『浄土真宗は修行をしない』
この言葉はよく耳にしますよね。浄土真宗のお坊さんも否定はしません。
ただ修行というのは「行を修める」と書くように、別に山にこもったり、護摩行をしたり、滝に打たれたりといったものだけでなく、読経やお念仏といったように仏様参りすること・感謝の生活をすることも含まれているでしょう。
山にこもり人里離れ厳しい戒律を守ることだけが修行ではないということです。
ですので浄土真宗お坊さんの私から見れば、他宗の山籠もりしてする修行というのは、理想は高いけどもちょっとどうかなあ~と感じることがあります。
なぜ山にこもり修行するのか。
それは隔離された空間に放り込まれることで、自戒・自律が難しい私を無理やりにでも修行に集中するための意識をつけるためです。
人間というのは煩悩や欲望が切っても切れない生き物です。
軍隊的と思われるかもしれませんが、外部と処断した空間に身をさらし、無理にでも戒律を守らないといけない環境にすることで、修行をしやすい場となるのです。
ですが修行を終え山から下りた後はどうなるでしょうか。
今まで厳しい生き方をしていた人(僧侶)が、急に先生せんせいと持ち上げられて、その上今まで見たことも無いような大金をお布施としていただいたら、自分が偉い人間だと勘違いした人になってしまうんじゃあないんだろうか。
今まで厳しかった分、その反動が大きいのではないかと邪見してしまいます。
厳しい修行するのは素晴らしいですが、いずれ山を下りるのであれば、はたしてその後も自律自戒ができるのでしょうか。難しいのではないだろうか。
自律・自戒を過度に求めるのは危険ではないだろうか。
浄土真宗では仏弟子になった名乗りとして「法名」を授かります。仏法に生きる人ですね。
一方で他宗では「戒名」を授かります。仏教徒として戒律を守る生き方を宣言していますね。
どちらも死んだ後ではなく、生前に授かります。
法名や戒名を授かるのは、この名があることで自分が救われる・好きなことをしてもいいというのではなく、より一層仏教に向き合う自分になったと気づかされるためです。私は仏弟子のお仲間なんだと。
浄土真宗では阿弥陀様のはたらきにより、死後間違いなく阿弥陀様のお浄土に生まれさしていただきます。ですので、今を生きている私たちというのは仏法に生きますます仏様の教えを聞きいただいていく生活をしていきます。
戒名があることで安心しだらけるのではなく、やはり戒律を守る生き方を継続する必要があるでしょう。
どちらが優れ劣っていると話ではなく、単純な話として、過度に戒律を守ることを意識するのは危険ではないでしょうか。
「あれをしたら駄目。これをしたら駄目。これをしなければならない。毎日必ずするように。」とガチガチに縛られた生き方というのは、厳しい環境下に置かれた状況であれば成り立つかもしれませんが、例えばテレビやインターネット、ゲーム、人間関係の様に絶えず流れ込んでくる目移りしていく情報に晒されている現代ではなかなか現実的ではないような気もします。
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さいごに。何事もバランスが大事。
そんなことを考えますと、バランスよく戒律(ルール・規則)を守ることが何よりであり、過度な自律自戒は危険・反動があるんじゃないかと思います。
途中で例に挙げた250万円の話は当事者同士ではないので事情も知らずテキトーなことは言えないのですが、はたから聞く人にとってはお坊さんがぼったくったなあと思やもしれません。
浄土真宗は生活の中で仏法に出あい生きていく教えです。
戒律が無くてお坊さんとして相応しく無いと思う人もいるやもしれません。
しかし一方では、お坊さんも普通の人と同じようにお肉を食べ結婚し子を授かり悩み生きていきます。
自分を律すること・自戒することによって仏法をいただき仏道に励むことができるのであれば素晴らしいのですが、山に籠るような世俗と隔離した極端な生活ではなく、世の中のごく普通の生活をする中にでも仏法を頂くことはできるでしょう。
人間として生きているのですから、当然悩みや欲も出てきます。
常に戒律に束縛された生き方をするのではないのですから、世の中の流れも知り、バランスの取れた生き方をするのが大切だと思います。
戒律(ルール)を守らない生き方も問題ですが、過度に気にしすぎるのもまた危険ではないでしょうか。