こんばんは。 香川県丸亀市に住む僧侶のかっけいです。
先日、当寺主催の京都世界遺産巡拝旅を催行しました。
その旅を通して心に率直に感じたことを、帰ってきて早々に書き散らします。
寺のあるべき風景について感じたこと。
寺とはなんだろうか。
仏様(仏像・仏画)をまつる空間だろうか。
もちろんそのような面を持っています。しかしそれだけではないだろう。もしも仏様を安置しているのが寺というのであれば、仏壇を迎えている家は寺ということになりますよね。それは違うと直感的に分かりますよね。
ということは、仏様をまつるだけでは寺ということになりません。
では何が大切なのだろうか。
それは仏法僧(ぶつ・ぽう・そう)の三つの宝を敬っていることが寺という空間において大切なのではないだろうか。
皆様はなぜ寺に参るのですか?なぜ世界遺産の社寺に観光に行くのですか?
その動機の一つには、仏教の歴史・仏教の教え・日本の歴史文化を体験したいからではないだろうか。
仏教を開かれて教えを説いた釈迦仏・救いの願いを建てた諸仏を安置し、その教え・法を伝えている建物や経典や資料、そしてその建物や経典資料を守り伝えていく僧侶たちがいて、初めて寺として成り立つのではないか。
回りくどい言い方をしましたが、私の中では今回ちょっと残念な気持ちになった寺や世界遺産、さすがやなあと感じた寺とはっきりと別れました。
京都にある世界遺産や国宝級の建物は敷地が広く、庭も手入れされており、伽藍も立派で世界遺産にふさわしいものばかりです。
でもですね、お坊さんの姿が全く見えなかった寺もあるんですよ。
お坊さんの姿が見えない寺というのは寺院に参拝している人からすればおかしなところです。
修学旅行生や外国人旅行客を除けば、作務衣を着たおそらく雇われの案内人・チケット売り、そして警備員の姿しかありませんでした。
仏教徒は仏法僧を敬うのが基本のようにお坊さんは偉そうに言いますよね。でもそのお坊さん自身が奥に引っ込んでいて、姿を見せないのであれば何言ってんだと感じませんか。
現代では僧侶へ尊敬の念を持っている人は少ないでしょう。
僧侶は葬儀の時だけ姿をあらわし、日常生活では目にしない・触れない存在と思っているかもしれません。
世の人や社会のために汗水を流す姿を見せられないだけでなく、寺に参っても存在を感じられないのであれば、僧侶は何のために大きなお寺にいるのか。
今回、私や住職は寺参りに僧侶の姿である黒色の道服や輪袈裟を身に付けて、旅行参加の門信徒らとお参りしました。
すると観光中に自分たちとは関係の無い他の観光客から色々お声をかけられました。
お参りに来られた人というのは、何気なしに来ているのではありません。
先ほども言いましたが、歴史・文化・教え・見どころなどなどを知りたい・感じたい・また僧侶と交流したいという思いがあります。
どうぞご勝手に・どうぞご自由にお参りしてくださいと突き放すのではなく、お坊さんは境内に立ちお参りの人を温かく迎えるのが大切でないか。
その点で私が有難かったなあと感じた寺を一つ挙げます。その寺は真言宗御室派の総本山である仁和寺(にんなじ)という寺です。
仁和寺と言えば、料理長の勤務に対し約240時間の残業・349日の連続勤務そして京都地裁から約4253万円の支払いと、労働基準法をバリバリに破っていたニュースがかつてあった寺で悪評が立っている寺かもしれません。
しかし今回の旅ではそのような印象は感じられず、さすが本山やなあと感心しました。
というのも私たちの一行が仁王門と中門の途中で勅使門を拝見していましたら、中門の方から歩いてこられたお坊さんが声を掛けてくださったんですね。
面識はなかったのですが、有難いご縁が重なり、向こうの方から通常拝観では非公開の金堂(本堂)を特別に入堂するように勧めてくださいました。
その無茶ぶりに対応して下さった若い僧侶もニコニコとしており気持ちが良かったです。
実は声を掛けてくださった人物は仁和寺の総務部長であり、役職の立場で言えばかなりの人物です。しかし身なりも袴をはき格調高く、物腰も柔らかであり、勅使門から中門・御室桜を一緒に歩き、金堂の中では仁和寺の歴史についても説明してくださいました。
本来お寺というのは、これぐらい柔軟に対応していく必要もあり、お坊さんに自由に声を掛けられる雰囲気、お坊さんから挨拶もあるような姿が大切なのではないだろうか。
その人物とは金堂で別れ、私たち一行は御殿内を拝観したのだが、そこには事務の人だけでなく、衣を着たお坊さんが所々に立っていたんですね。
お坊さんの姿が見える寺というのは、それだけ寺の雰囲気が厳かになります。一方でお坊さんの姿が見えない寺というのは物足りない印象を受けます。
最近のお坊さんは寺でもスーツや作務衣を着たりしていることが多い印象です。駄目とは言いすぎですが、ビジネスマンでもないですし、作務衣を着なければ作業ができないほどの仕事でなければ、お坊さんらしく衣を着て参拝客を迎えるべきでしょう。
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さいごに。
旅行から戻ってきて最初のブログ投稿が下手すると寺院批判・僧侶批判に感じられては私も辛いが、今回京都の世界遺産・国宝級の建物を巡拝し感じたことを率直に書きました。
寺院のあるべき姿というのは、仏様を安置しただ護持運営し守っていくだけでなく、そこに来た人たちに対して、僧侶の姿をしたお坊さんが表に立ち気軽に温かく声を掛け、また声を掛けられるような風景が望ましいように感じました。
最近ではだいぶ事務的な対応をするお坊さんが増えてきたような印象です。
最近では労働基準・残業時間・働き方改革などが話題に挙がります。
ですが必ずしも僧侶の世界・宗教の世界に当てはまる考え方ではないと思います。
例えばですが、寺院の受付時間・門限が午後4時だったとします。ですが20分遅れて電話がかかってきたとします(または門をたたいた人がいた)。その場にいるのにも関わらず電話を取らずに応対しないのであれば、僧侶として正しい姿なのでしょうか疑問です。
時間を過ぎて電話をかけてきたり訪れたことは確か向こうの責任があります。しかしひょっとすればやむにやまれぬ理由があるのかもしれません。このタイミングを逃すと二度と相談できない切迫した要件かもしれません。
なにごとにも臨機応変に柔軟に対応する必要はありますが、寺を預かり守り仏教の教えを伝え共有していく僧侶というのは、寺に訪れた人たちに対して自身の姿を見せていくことが大切なのだと感じます。
教えや仏像や伽藍が立派でも、そこを守り伝えていく僧侶が胡散臭く正体不明な存在であると、仏教そのものが信頼できなくなるのではないだろうか。