こんばんは。 真宗僧侶のかっけいです。
浄土真宗は他の仏教宗派と比べるとやや異様なように感じるかもしれません。
例えば、「追善供養はしない」・「お札・おみくじはお寺に売られていない」・「拝観料は(基本)不要」などが他の宗派とは異なります。
他にも「法名(ほうみょう)・戒名(かいみょう)」の違いもありますよね。
浄土真宗では戒名とは名乗りません。なぜなら受戒をしていないのですから。その代わりに法名を用います。阿弥陀仏の法を聞き、阿弥陀仏のはたらきの中に人生を歩むので、阿弥陀仏の法に出あった名乗りとして法名を授かります。
さて今回のお話は『過去帳について』です。(過去帖とも書くことがありますが用途は同じです)
浄土真宗のご門徒さんでもお仏壇にお位牌をお飾りしていることが多いように感じますが、正式には過去帳をお飾りすることが勧められています。
過去帖とはどのようなものなのかを紹介します。
[前置き]浄土真宗でも使われている(繰り出し)位牌。
位牌の形は地域性があるので、上の写真は一例です。私の住んでいる所では一般的なデザインです。
これは繰り出しの位牌と呼ばれ、上部の屋根を外すことができ、法名が書かれた板が5~10枚程度入っています。
繰り出しと言われる理由は、故人の命日のお勤めの時には、その人の法名などが書かれた繰り出し板を一番前面に繰っていくためです。
繰り出しの位牌は日常的にお仏壇にお飾りするために使われます。
白木のお位牌は葬儀の時から49日法要(満中陰法要)までの期間に使用します。この時期が過ぎますと、白木の位牌の内容を位牌や過去帳に書き写します。
浄土真宗では過去帳を用いるのが正式。
誤解をされてはいけないので最初に説明しておきますが、浄土真宗では過去帳を用いるのが正式です。しかし(繰り出し)位牌は駄目・禁止と主張しているのではありません。
浄土真宗が位牌を用いないのには理由があります。
それは位牌に故人が宿り、位牌に対して拝むのではないからです。そのことを知ってください。
浄土真宗のお参りの対象は仏様、阿弥陀仏
浄土真宗は先祖の供養の為や、自分の願い事、まじない事のために仏様には参りません。
浄土真宗の門信徒がお寺やお仏壇にお参りするのは、仏様への感謝・お礼参りの為です。お参りをする中に仏法に出あっていくのです。
では先立たれた先祖の命日のお勤めにどのような意味があるのだろうか。
それは故人の命日のお勤めを通して、仏様に手を合わすご縁をいただいているのです。
浄土真宗では位牌を拝みません。また過去帳も拝みません。仏壇は仏様を安置する空間であり、位牌置き場・過去帳置き場ではありません。
「〇月□日にお仏壇に参る」といった決まりごとは浄土真宗にはありません。いつでもお仏壇にお参りしてください。といっても、なかなか私たちは毎日毎日、お仏壇の前に座り手を合わすことができません。
そこで役立つのが、過去帳です。
過去帳には先祖の命日が記されています。その先祖の命日が記されたページを開くことで、その御縁から仏様に参ることができるのです。
浄土真宗の過去帳は上の写真のようなデザインです。
過去帳には「法名」・「死亡年月日」・「俗名」・「年齢」などが記されます。その人の命日のお勤めの時には、そのページを開いてお仏壇に手を合わします。
また浄土真宗では『日めくりの過去帳』を使われることもあります。簡単に言えば、日付が添えられた過去帳のことです。月ではなく、「一日」から「三十一日」までの日付のみが記されています。
例えば上の日めくり過去帳の「二十二日」を見てみます。
すでに2行分書かれています。
①1行目には一人目の法名が書かれており、②2行目には二人目の法名が書かれています。この二人は死亡した年月は全く異なっています。
①の人は昭和の初め頃のとある月の22日、②の人は平成のとある月の22日に亡くなっています。そしてこれから22日に亡くなった人も続けて③・④と書き足されていきます。
使い方は非常に単純です。
毎月一日にお仏壇にお参りした時には、「一日」のページを開き、記されていればその人のご縁を通して仏様に手を合わし、記されていなければそのまま手を合わします。
翌日二日になれば続けてページをめくり、「二日」に記されていればその人を偲びつつお参りします。
過去帳に故人の魂が宿っているのではなく、お仏壇にお飾りした過去帳をめくり開くことで、仏様にお参りするご縁をいただき、また月命日の人がいれば、その人のことを偲びつつ仏様に参ります。
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さいごに。過去帳と位牌に優劣はない。
浄土真宗は過去帳をお飾りすることを勧められています。
しかしそれは位牌が駄目というのではありませんし、位牌が劣っているというわけでもありません。
浄土真宗的な立場で言えば、位牌も過去帳も法名軸も先立たれた人たちの記録帳です。
自分という存在は急にポッと生れ出たのではなく、ここに記された先人たちがいたからこそ今いるのであり、亡くなられた方たちを偲びつつ、いのちの過去から未来へのつながり、そして横へのつながり・支えあいを感じつつお参りします。
私の住んでいる地域では過去帳も繰り出しの位牌も両方お仏壇にお飾りしている家もあります。しかしそれでも何の問題もありません。大切なのは仏様にお参りするご縁なのですから。
位牌を飾るから不幸がある。過去帳を飾らないと浄土真宗ではないというわけでありません。むしろ両方お飾りしている家は、より丁寧に先祖を敬うために過去帳にも位牌にも先祖を記しているようです。(ちょっとニュアンスが違うかもしれませんが、二つ以上に名前を残すのは、お骨を家のお墓に納め、檀那寺にも納め、本山にも納めるといった行動と似ていると思われます)