浄土真宗がお墓や仏壇に水を供えない理由

かっけい
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浄土真宗僧侶のかっけいです

浄土真宗ではお墓やお仏壇には飲むための水を「専用の器に入れて」お供えしません。

と浄土真宗のお坊さんはよく言うのですが、なかなかその理由を理解している人は少ないかもしれません。

水を供えないと故人の喉が渇くじゃないという人もいますね

そこでなぜ水を供えないのかを説明します。

補足(お水のお供え)

ややこしくなりますが専用の器には入れないのですが、結果として浄土真宗でも仏さまに水を供えていることになります。そのことも説明します

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多くの仏教宗派が水をお供えする理由

しばしば水を供える理由として、一般に『仏様や故人の飲み水であり食事だと』説明されることがあります。

一般的な水を供える理由
  • お水やお香は仏様の好物だと。
  • 死んだ先祖の喉の渇きを潤すためだと。

上のような説明をされる仏教宗派もあるでしょう。また私は、次の話も聞いたことがあります。

  • 透き通った水は、穢れの無い浄土を象徴
  • 供える人の心身(身口意)を清める意味

これらの説明されることもあります。

浄土真宗のお坊さんはよく、お仏壇とは浄土世界をコンパクトに表現したものと言います。ただ単に仏様や先祖に何かしてあげようという場所ではないんですね。

他宗派の仏壇も似たようなもので、やっぱり仏壇はお浄土の世界を表現したものであります。

水を入れた湯呑み(茶湯器)を毎日入れ替えることによって、常に澄んだ水をお飾りしお浄土の世界を表現したり、またお供えする行為によって自分自身も清らかに仏様に手を合わせたいということにつながります。

詳しくは、他宗派のお坊さんにも聞いてみてください

なぜ浄土真宗では水を供えないのか

浄土真宗ではお水やお茶は供えません。

理由は単純で「阿弥陀仏のお浄土には、清らかで優れた水がたっぷりあるから」です。

阿弥陀仏の浄土のことを「極楽浄土」と言います。その極楽には池があり、「八功徳水(はっくどくすい)」という八種類の優れた功徳の水があることが仏説阿弥陀経に説かれています。

阿弥陀仏の極楽の8種類の水
  1. 澄浄:濁っておらず、澄んできよらかな水
  2. 清冷:きよらかで冷たい水
  3. 甘美:甘くおいしく深い水
  4. 軽軟:かるくやわらかな水
  5. 潤沢:仏の智慧がありうるおいのある水
  6. 安和:身も心もやすらかにする水
  7. 除患:飢え・渇きといったわずらいを取り除く水
  8. 養根:身も心も養い育てる水

玄奘三蔵訳の阿弥陀経より

浄土真宗では亡くなられた人は阿弥陀仏のはたらきによって、阿弥陀仏のお浄土に生まれ往くとされます。

ですので餓鬼世界に落ちて喉が渇いたり、地獄世界に落ちて身が焼かれるような思いをしていることはないんですね。

浄土真宗が水を供えない理由

阿弥陀仏のお浄土には優れた効能の水が満ち満ちているので、わざわざ私たちの方が故人のために水をささげる必要はありません。

浄土真宗では仏壇の茶湯器や墓の水鉢を使わない

お墓の水鉢(水受け)。浄土真宗では不要

浄土真宗ではお水やお茶をそれ専用の容器に入れてお供えすることはありません。

ですので、お仏壇には茶湯器を、お墓にも水鉢(水受け)を用意しません。たとえお墓のデザインとして窪みがあっても水を張りません。もちろんお墓に水をかけるといった行為もしません。

掃除のためにお墓に水をかけることはOKですよ

浄土真宗では、極楽に生まれた故人が水を渇望していて満足していないという考えではないからですね。

でも浄土真宗でもお水をお飾りしている

ここまで「浄土真宗はお水を供えない」と繰り返し説明しました。

でも実は、お水をお飾りしているんですよ

浄土真宗では、華瓶(けびょう)や花瓶(かひん)のお水を供えているともされます。

浄土真宗ではご仏前に2種類の花立てがあります。華瓶(けびょう)と花瓶(かひん)です。

ご仏前に供える華瓶のお飾り

華瓶とは仏様の目の前の机(上卓:うわじょく)にお飾りする花立のことで、樒という香木をさしています。

この華瓶とはもともとインドで香水を入れる宝瓶(ほうびょう)・水瓶(すいびょう)をモデルにした仏具といわれています。浄土真宗ではこの華瓶に樒や青木などの香りのある木をお供えして、同時にこの瓶にいれる水を香り水として仏前におそなえしているのです。

また仏前には造花ではなく、生花をお供えするのが作法です。

生花をお供えするときは、あわせて花瓶にお水を注ぎますよね。生花は生きている花でありやがて萎れ枯れていきます。花のいのちを生き物のいのち・私のいのちとなぞらえて、そして枯れないようにと水を入れ替えていくことによっていのちのあり様を説かれているのです。仏前にお供えする生花を入れた花瓶に注ぐ水もまた、間接的ではありますが仏さまの法を象徴したお水となります。

ですので茶湯器や水鉢といった専用の容器を使わない浄土真宗でも、華瓶や花瓶といった仏具に注いだ水をお飾りしています。

補足。いただいた質問

ご先祖さまや仏さまは華瓶や花瓶の水なんて汚くて、飲みたくないだろうなあ。やっぱり湯呑とかにいれたい。

もっともそうな感想ですが、浄土真宗のお坊さん的にはちょっと違った考えです

浄土真宗の仏前のお飾りは、亡き人のためや仏さまのためではなく、仏さまの極楽の荘厳を表現したもので、私たちの方にむけられたお飾りです。

たしかに華瓶や花瓶の水はだんだん濁って汚れていきます。飲みたくはないでしょう。しかし極楽の世界にいらっしゃる方たちは、仏壇のお水を飲んでいるのでしょうか。

繰り返しますが仏壇にお飾りしているお水は、極楽の荘厳を表現した水です。先祖や仏さまが飲む用の水ではありません。そんなことをしなくても極楽には8種類の優れた効能の水があります。

もっといえば「華瓶や花瓶の水が汚い」というけれども、例えばお寺にある蓮池や蓮堀はどうでしょうか。仏教でもっとも尊い蓮は濁った泥の中で美しく咲きます。濁っている水は汚いから仏さまに相応しくないといいますか?そうではないでしょう。

もしお供えした華瓶や花瓶の水が汚くて嫌と思うのであれば、こまめに仏前にお参りし、お水を入れ替えてあげればどうでしょうか


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浄土真宗は追善の気持ちで水を供えない

浄土真宗の言い分を説明しますと、お水を供える行為というのは、亡くなった人や仏に対して「水を飲ませてあげよう」と追善供養の気持ちがあるということであり、「満たされていないあちら側の人」と「してあげようという生きている人」の立場ができてしまうので、仏様や先祖を敬うといった姿ではなくなってしまうんですね。

浄土真宗が手を合わし南無阿弥陀仏と口に出すのは、死者や仏をまつるためではありません。仏法にであい、恵みに感謝してのことです。

阿弥陀仏の浄土には優れた水が充満しているのでわざわざに生きている側の人が水や茶を供える必要はありません。しかし一方でお仏飯のような側面はあります。

お仏飯は炊いたお米を仏前に供えるということですが、浄土真宗では仏様や故人の食事のつもりでは供えていません。

あくまでも主食である食べ物をあらゆるご縁(仏のご縁)としてお供えするのであり、華瓶や花瓶の水は日々のいのちの糧である仏の恵みに感謝してでのことです。浄土真宗では追善ではなく、報恩感謝のお供えです。

お仏飯をお茶碗に盛らずに仏飯器に供えるように、水や茶を湯飲みや茶湯器やコップに入れずに、ご仏前の花立にてお飾りします。それが浄土真宗の荘厳の作法です。

ちなみにお仏飯を毎日上げ下げするように、花立の水もこまめに入れ替えて水を清潔に保つのも大切なことですよ

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1つ目は阿弥陀仏の極楽の世界について書かれた阿弥陀経を現代語訳したもの。極楽がどんな様子であるのかがわかります。

2つ目は今回の記事内容と似ていて、次のことを書いています。

  • 華瓶や花瓶にいれた水を飾りましょう
  • 故人の好物だった酒や茶はお供物台に飾りましょう

3つ目は、飲むためのお水を先祖や仏様にあえて供えないことの他、浄土真宗ではどんなことをやってもいいのかを書いています。

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