昨年に続き、
香川県にある郡家別院の仏教青年会より、寄稿を依頼されました。
私が書いた文章を紹介します。
響き
先日、広島平和記念公園に行きました。今からおよそ80年前に原子爆弾が落とされた場所にある公園です。元々は多くの人が生活し、賑わっていた場所です。戦後、平和の象徴の地として公園へと整備されました。
公園内には、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を訴えるシンボルの原爆ドーム(世界遺産)だけでなく、数多くの慰霊碑や像、戦争の悲惨さを伝える記念館などがあります。現在、広島平和記念公園は外国人が最も訪れる場所となっているようです。
公園内を歩いていると、慰霊碑に献花や折り鶴を供え、平和を祈る人たちの姿が多く見られました。そしてまた、どこからともなく鐘の音が鳴り響いていました。最初は時間を知らせる鐘かと思っていましたが、絶えず広島の公園を包むかのように響いています。
歩き続けると、その鐘の音の正体が「平和の鐘」であることが分かりました。
平和の鐘はどなたでも自由に鳴らすことができる鐘です。蓮の池の真ん中にある鐘は、仏さまの世界をイメージしているようにも感じました。
この鐘には世界地図が描かれていますが、国境がありません。また、鐘を撞く場所は、赤道と日付変更線が十字に交わるところにあります。世界はひとつであり、世界のあらゆるところまで平和への思いが届くようにとの願いが込められています。
平和の鐘を実際に見て、気がついたことがあります。鐘の下の縁をぐるっと囲うようにサンスクリット語が刻まれていました。ガイドの人いわく、仏説無量寿経の言葉とのことです。
仏説無量寿経は、浄土真宗でもっとも大切なお経とされていますよね。阿弥陀という仏さまが、あらゆる人びとをもれなく救いとることや、その仏さまの願いの呼びかけが十方のあらゆる世界に響き渡っていることが説かれています。
「響きあういのち」
これは真宗興正派が宗祖親鸞聖人750回忌法要で出したテーマの一つです。
私たちは自分一人では響きあうことはできません。必ず他の人とのつながりがなければ、響きあうことはできません。
鐘の響きも似ています。
鐘はそれだけでは音を響かせることはできません。
撞いてくれる人がいて、はじめて響きわたります。
「平和の願い」や「核兵器の廃絶」の言葉は、それだけでは響くことは難しいことでしょう。平和を願う人同士がその心を共有しあうことで響きあっていくのだと思います。
阿弥陀さまの願い、南無阿弥陀仏のお念仏も同じことだと思います。私たちを救うと願われた仏さまの呼びかけに、私の方からも受け取ろうとしていくことで、いのちが響きあうのではないでしょうか。
仏さまからの願いを聞いていき、また同じおもいを共有する人たちが集まることで、その響きがよりいっそう大きなものとなるでしょう。
法事やお葬式、またお寺での法要は、亡き人からのご縁のもとに集まった人たちが、仏さまからの願いに出遇うことのできる場です。
平和の鐘が平和を願う人たちによって今も響いているように、仏さま参りもいのちがともに響きあえるご縁になってほしいものです。
合掌
円龍寺 衆徒 金倉克啓
平和の鐘