【仏教コラム】「自分ファースト」を超えて ―― 共に養われ、生かされる「お互い様」の心

かっけい
かっけい

香川県にある郡家別院の仏教青年会に寄稿した文章です

2026年3月の郡家別院の彼岸会の折に、仏青通信で配布される予定です。郡家別院のホームページでも掲載されるでしょう。

「自分ファースト」を超えて

共に養われ、生かされる「お互い様」の心

 「一月は往ぬ 二月は逃げる 三月は去る」と言われます。お正月が過ぎれば、もう二月、かと思えば早三月。新生活を控えたご家庭もあれば、仕事の年度末に向けて慌ただしく過ごされている方もおられるでしょう。私たちは常に目の前のことを生きるのに精一杯で、立ち止まる余裕を失いがちです。
 お寺に足を運んでいただく時間は、そんな日常の喧騒から一旦離れ、普段は忘れてしまっている大切なことを思い出すための時間でもあります。

 昨今の社会情勢を見ますと、「自分さえよければいい」という空気感にあふれています。自分の利益、自分の所属するグループの都合、自分の権利。それらを最優先し、自分と異なる考えを持つ人や、自分にとって不都合な人を排除しようとする動きが強まっているように感じます。
 もちろん、自分を大切にすることは必要です。しかし、行き過ぎた「自己中心的な考え方」は、社会から優しさを奪い、結果として私たち一人ひとりを孤独へと追い込んでしまうのではないでしょうか。
 かつては、たとえ喧嘩をしても、どこかで自分にも非があったなあという「お互い様」の感覚がありました。地域の人々や家族が、互いに寄せ合い、時に煩わしさを感じながらも、共に助け合う時代を歩んできましたよね。しかし今や、多くのことがお金やテクノロジーで解決できるようになり、他人を思いやる余裕が失われてしまったように感じます。
 人を人と思わず、気に入らなければ出ていけと排除する。そんな冷たい風が、私たちの心を吹きすさんではいないでしょうか。

 何気なく耳にする言葉に「供養」があります。
供養といえば、亡くなった方にする祈り・功徳だと思われがちです。しかし、供養を字の通りに読むと、「共に養う」と書きます。供養とは「私が誰かを養ってあげている」という一方的なものではありません。「私もまた、誰かに養われ、生かされている」ということです。
 私たちは一人で大きくなり一人で生きてきたつもりかもしれませんが、その背後には数えきれない命と、無数の人々との営みがあります。亡き人たちもそうです。今の自分があるのは、先人たちが命を繋ぎ、願いを繋いでくれたからです。供養という場は、そうした「目に見えない繋がり」を再確認し、高慢になりがちな「自分ファースト」の心を、そっと「お互い様」の心へと戻してくれようとする大切な機会です。

 最近では、葬儀や法事の形も随分と簡素になりましたよね。「周りに迷惑をかけたくない」「死んだら終わりだから、好きにしてくれたらいい」という声も聞かれます。しかし、それは本当の思いやりなのでしょうか。
 人間にとって、一番悲しいことは「忘れられること」です。自分のことを誰にも心に留めてもらえない、存在しなかったかのように扱われる。これほど冷たい世界はありません。
 一方で、誰かが自分のことを思ってくれている、誰かが自分のために手を合わせてくれていると感じるとき、自分もまた他の人のことを思うことができます。たとえその人がもうこの世にいなくても、「あの人ならこう言うだろうな」「あの人はこう願っていたな」と思い起こすとき、その瞬間に、私たちは独りぼっちではなくなります。
 「自分さえよければいい」という生き方は、思いやりをなくし、他者を忘れる生き方です。他者を忘れるということは、巡りめぐって自分も誰かから忘れられていく孤立した世界になります。今、社会に広がる「人を傷つける暴力的な言動や振る舞い」の根底には、相手の痛みを感じる心の欠如、すなわち「人を思う心」が失われてきているように感じます。

 浄土真宗の大切なお経文である『仏説無量寿経』に「仏仏相念(ぶつぶつそうねん)」という美しい言葉があります。「仏様と仏様が互いに思いあい、拝みあっている」という世界を表しています。
 仏仏相念の世界を私たちの社会に当てはめてみてください。相手を「憎しみあう敵」や「便利な道具」としてみるのではなく、一人の尊い存在として敬う。相手の中に「仏」を見いだし、手を合わせる。もしそんな社会であれば、自分の都合で他者を傷つけたり排除したりできないはずです。

 もし私たちが「自分こそが正しい」「相手が間違っている」と互いに指を差しあっていたら、そこには争いしか生まれません。しかし、もし私たちが相手の存在を尊いものとして敬い手を合わせられ、「自分にも至らないところがあった」と頭を下げることができたなら、私たちの心は「仏仏相念」の世界に近づくでしょう。たとえ相手に対して直接手が合わさらなくても、心の片隅に「生かされている自分」への謙虚さがあれば、誰かを蹴落とし、誰かの悲しみを笑ったりするようなことはできないはずです。
 そんな思いあえる「仏仏相念」の世界こそが、今の社会に求められているのではないでしょうか。

 浄土真宗の教えでは、私たちが手を合わせる心を他力回向の働きとして受け止めます。「私が亡き人を思ってあげている」のではなく、「仏様となった亡き人の方から、この私を思わせ、手を合わせさせてくれている」のだといただけます。
 自分さえよければいいと孤独に走ってしまう私を、「見えないところで、みんな繋がっているんだよ」と呼びかけ、包み込んでくれる願い。その願いに気づかせていただくことが、亡き人から私たちに届けられた本当の供養だと思います。

 今日のこの法要は、ご家族らのありし日を偲ぶとともに、自分自身の生き方、周りとの繋がりを問いなおす場でもあります。排他的な言葉や振る舞いが飛びかう時代だからこそ、私たちは相手を思いやる供養の心を大切に守っていかなければなりません。「自分ファースト」の閉じこもった殻を破り、誰かと共に養われ、共に生きている。その心を大切にしてほしいです。誰かを思う心は、巡りめぐって、あなた自身を支える力になるはずです。

 お寒い中、ようこそお参りくださいました。

合掌

円龍寺 衆徒 金倉克啓

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