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豆腐好きの法然、小豆好きの親鸞.ラジオ#75

第75回目のラジオ配信。「豆」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

ラジオの内容まとめ
  • 逸話「法然は豆腐好き・親鸞は小豆好き」
  • 豆腐好きの由来は、流罪の香川の地
  • 小豆好きの由来は、弟子のおくった小豆餅

前回の春の節分に引き続いて、今回は「豆」について雑談します。

2020年の12月1日に配信した67回目のラジオ「報恩講での仏壇のお飾り」をテーマにした話の最後に、法然は豆腐好き・親鸞は小豆好きと話したのを覚えていますか?

この「浄土真宗の宗祖親鸞は小豆が好きだった」・「浄土宗の宗祖の法然は豆腐が好きだった」というのはよく知られた話で、親鸞聖人のご命日法要の時にはお赤飯のお仏飯をお飾りする家もあったり、法然上人のご命日法要にはお豆腐料理をお供えすることもあります。

私ももう10年ほど前ですが浄土宗総本山の「知恩院」でランチをしたときに、湯豆腐とかゴマ豆腐とかの料理がたくさん出てきて、豆腐は手作りなんですよと説明を受けたのが今でも印象に残っています。

その時は、京都の豆腐料理は有名だから手作り豆腐なんだろうなあと早合点したのですが、後で思えば、法然上人が豆腐好きと伝えられていることに関係あったのかと聞いておけばよかったなあと思いました。

ちょうどこのころの2011年に東京国立博物館で「法然と親鸞」の特別展が開かれていて、その時のニュースで「法然上人は豆腐が好きだった」、「親鸞は小豆が好きだった」というのが全国的に広まったような気もします。

さてこの豆腐好き・小豆好きは有名な逸話なのですが、私はこの言い伝えの出典というのを知りませんでした。

出典・由来が分からないのに、豆腐好き・小豆好きですよというのはお坊さんの私にはもやもやとした気持ちがあったのですが、つい最近、由来について紹介しているものを見つけたのでこれから紹介します。

まずは法然上人の豆腐好きの由来から紹介します。

1994年に浄土宗宗務庁が発行した「法然さまってどんなひと?」の53ページ目にその記述がありました。著者は浄土宗布教使会理事や総本山知恩院布教使会会長を勤められた岩井信道氏です。

それでは53ページ目に書かれた内容をそのまま読み上げんるんですが、その前に法然上人の足取りを補足説明します。

京都から流罪された法然は香川県にやってくるんですが、まず最初に上陸したところは丸亀の塩屋とされます。そこから香川の南にあるコンピラさんの方に行き、九条家の荘園のある小松の生福寺にて滞在します。そして生福寺は西念寺という寺になって現在も続き、ここがお話の舞台です。

それでは読み上げます。

『法然上人行状絵図』では、松山の観桜会へおでましになったとありますが、私はこの松山とは道後温泉の所とばかりおもっていました。三月の下旬にここへお着きになったのでは、桜の花にはとても間に合わないと思いましたら、西念寺の裏山のことを松山と言い、そこの桜をご覧になったのでしょう。

その山の中腹に小さな井戸があり、きれいな水がこんこんと湧き出ていました。これを法然水と言うのですが、土地の人たちが、何かおめでたいことがあってご馳走に豆腐を作りますと、この井戸に持って来て入れて置いてあげます。それを法然上人が喜んで頂戴されたそうです。そんなことから、法然上人は大変お豆腐が好きであったという伝説が伝わりました。法然上人の御忌法要には、お豆腐のお汁か、けんちん汁か何かを作って供養する所が各地で見られました。

浄土宗が発行した本によると、このことが法然が豆腐好きとされる由来だそうです。

続けて、親鸞は小豆好きについてです。

2019年2月の龍谷大学農学部のブログで「親鸞聖人はアズキがお好き」という内容が書かれています。そこには、

文学部の院生が、「親鸞聖人はアズキを好んだ」という文献情報を寄せてくれました。その文献には、アズキをお好きなことと小豆餅を好んだことが、記されていました。

とブログに書いてあるのですが、その文献が何なのかのくわしい紹介はなかったです。

で他に何か資料はないかなあと本を読んでも見つからなかったんですが、ネット上に載せてあるPDF資料の中にそれっぽい説明があるのを見つけました。

説明しているのは、龍谷大学講師で浄土真宗が専門の三浦真証氏です。

それでは読み上げます。

そもそも親鸞聖人と小豆との関係は江戸時代の文献『紫雲殿由縁記』にはじめて登場します。

「親鸞の弟子、導珍という僧が、たびたび親鸞聖人に小豆餅を進上していたようなんです。」

なかでも親鸞聖人が亡くなられる数週間前となる1262年の11月1日のこと。導珍は親鸞聖人のもとを訪れ、小豆のお餅を贈りました。「聖人はそれをとても喜んで召し上がったようです」と三浦先生。

聖人の没後も、導珍は毎月1日には金宝寺(現・下京区平野町)にて小豆餅をお供えし続けます。江戸時代になると本願寺が現在の地に移転するに伴って、この行事も西本願寺で行われることに。現在でも毎月1日の朝のお勤めのときにはお供えし続けられています。

龍谷大学の三浦氏によると、親鸞と小豆の関係は弟子の導珍が小豆のお餅を贈ったことが由来だということでした。

それがどうして親鸞が小豆好きにつながるのか私にはわかりませんが、まあよほど親鸞聖人がおいしそうに小豆餅を食べていたんでしょうね。

大豆と小豆
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親鸞と法然の足跡

親鸞の足跡
親鸞の足跡
  • 1173
    京都の日野の里で誕生

    父は貴族の日野有範で、松若丸(まつわかまる)と名づけられる

  • 1181
    出家得度し、比叡山に
  • 1201
    山を下り、法然門下に入る

  • 1207
    越後国(新潟)への流罪
  • 1211
    流罪がゆるされる
  • 1224
    主著『教行信証』がおおよそ完成

    浄土真宗の立教開宗

  • 1262
    11月28日の正午ごろ京都にて亡くなる
  • 1876
    「見真」の大師号を授かる

法然の足跡
法然の足跡
  • 1133
    岡山の久米で誕生

    父は武士の漆間時国で、勢至丸(せいしまる)と名づけられる

  • 1141
    父の死去と出家

    夜襲を受けて亡くなった父は、「汝、さらに会稽の恥を思ひ、敵人をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨を結べば、その仇世々に尽きがたし。しかし早く俗をのがれ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」と遺言をのこす。

    「怨みを晴らすに、怨みをもってすべからず」を勢至丸に伝える。

  • 1147
    比叡山にのぼる
  • 1150
    法然房源空の名を授かる
  • 1175
    比叡山を出て、京の街に降りる

    浄土宗の開宗

  • 1198
    浄土宗の根本宗典『選択本願念仏集』を書く

    九条兼実の請を受けて作成

  • 1207
    四国への流罪

    土佐国(高知)が流罪の地だったが、九条兼実の庇護により讃岐国(香川)に赴く

  • 1211
    流罪がゆるされ京都にかえる
  • 1212
    1月25日の正午ごろ京都南禅院にて亡くなる
参考にした本とPDFとブログ
  • 豆腐好きの由来は、平成6年に浄土宗が発行した『法然さまってどんなひと?(岩井信道)』から
  • 小豆好きの由来は、PDF資料『親鸞×小豆×文献』(三浦真証)と、『親鸞聖人はアズキがお好き』(龍谷大学農学部ブログ)から
紫雲殿由縁記は江戸時代の文書

親鸞の小豆好きエピソードは、「紫雲殿由縁記」が元になっているようです。

しかし紫雲殿由縁記は寛永15年(1638)成立・延亨4年(1747)増修の文書であり、信憑性が薄い話だと思うのは私だけでしょうか?

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