Podcast: Play in new window | Download
第74回目のラジオ配信。「節分の豆まきの掛け声」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
令和3年西暦2021年の今年は、124年ぶりに2月2日が節分になるそうです。
節分と言うのは春夏秋冬4つの季節の始まりとされる「立春・ 立夏・立秋・立冬」の前日のことなのですが、特に立春の前日の2月の節分が有名ですね。
私も詳しいことは分からないんですが、どうも地球が太陽の周りを1周する日数が365.2422日という中途半端な数字だそうで、この微妙な小数点2422が積もり積もることで立春の日が2月4日からずれたらしんですって。
そんなわけで、2021年は124年ぶりに2月3日が立春、2月2日が春の節分ということです。
さてそんな珍しい春の節分ですが、どうして節分の中でも春が特に有名なのでしょうか?それはおそらく全国各地で「福は内、鬼は外」の豆まきが行われるからだと思います。
「福は内、鬼は外」とは、節分の夜に煎った大豆を豆まきをするときに、幸運を招く福の神は家の内へ、禍(わざわい)をもたらす鬼の神は家の外へ追い出そうとして口にする言葉です。
ただ場所によっては、
- 福は内のみを繰り返し唱えるとなころもあれば
- 鬼は外のかわりに、別の掛け声をするところもあれば
- 福は内・福は内・鬼は外と福は内を一回多く唱えるところもあれば
- 鬼は外・福は内と鬼は外を先に唱えるところもあれば
- 福は内・鬼も内というところもあります。
節分の豆まきはもともとは中国の宮中で行われていた疫病や災害といった禍を追い払うために行われていた儀式で、これが平安時代に日本でも禍・鬼を追い払うための宮中行事として広まっていたそうです。
それで私のところは浄土真宗のお寺なのですが、浄土真宗では一般的に節分の豆まきをしません。
それはなんでかと言いますと、もともとは中国発祥の習俗であることや、煎った大豆を放り投げることで鬼や禍が退治される追い払われるといった迷信を当てにしていないことが挙げられます。また豆を放り投げると鬼の魔の目に(まめに)当たり魔を滅するといったダジャレみたいなことも当てにしないからです。
ですので全国いろんな所、お寺や神社などから福は内・鬼は外の豆まきの掛け声が聞こえてきたとしても、申し訳ないですが浄土真宗のお寺からは聞こえては来ません。浄土真宗の方々とって、節分はなじみの薄い行事だと思います。
さてそんな風に浄土真宗では節分の豆まきはしないのが一般的なのですが、中には節分の豆まきの行事をしている浄土真宗のお寺もあったりします。でそんなお寺では「福は内、鬼も内」あるいは「福は内、鬼は内」といった掛け声をしていると思います。というのも浄土真宗では鬼は悪いものとして外に外に、自分から離れた遠いところに追い出してしまおう・見ないようにしようと目を背けるものとして考えないからです。
福は内・鬼は外は一見すると幸福を願うきれいな言葉に感じるかもしれませんが、裏を返せば、自分にとって都合の悪いものを外へ追いやり自分にとって都合の善いものはこっちに来いという、とにかく自分勝手な自己中心的な考え方になっているのではないでしょうか。
浄土真宗はそうではなく、外に出そう目を背けようとしていた鬼は、いやむしろこの私の中にこそ住んでいるんではないだろうか。常に離れずいるんだということに気がついていくことです。
ただし注意点として、鬼というのを仏教でいえば鬼神(きじん)とも言い、目に見えない不思議な存在なことを言い表します。
でこの鬼神ですが、煩悩や妬みのように自分自身を苦しめる悪い鬼もいれば、逆にそれらから守ってくださる良い鬼もいます。
私たちの中には常に煩悩や妬みなどが住みついていますが、鬼が自分の中にいるんだと捉えることで、時にそれが転じて私自身を見つめなおし、自分勝手な自己中心的なものの見方を改めるようになっていきます。それが鬼は内のかけごえです。
最後に鬼の文字についての余談です。
のぎへんにカタカナのムのような字で、私という漢字がありますよね。
どこかのお寺の法語で見たんですが「私という文字の中には、仏がいる。また鬼の文字の中にも私がいる」というような言葉を見たような気がします。
これは言い得て妙で、なるほど鬼を見つめていくと私にもなるかもしれないし、仏にも通じるのかもしれないなあと思いました。
ちなみにこの私や仏や鬼の漢字の右側に出てくるカタカナの「ム」のようなパーツは、「手を伸ばす・取り囲む」といった意味があるようです。
「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。