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第108回目のラジオ配信。「仏様に息を吹きかけること」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
この番組では香川に住む浄土真宗のお坊さん、私かっけいが短いおしゃべりをするラジオです。
今回は「仏さまに息を吹きかけること」をテーマにして雑談します。
前回と前々回の106・107回目は「寺の門」をテーマにお話しました。今回は三週続けて私の祖父の言葉を紹介します。
私の祖父はどういうわけか、仏さまに灯すロウソクを消すとき「火をいれる」という言い方をしていました。ふつう火をいれると言ったら火をつけること、点火することを意味しますが、私の祖父は不思議なことに、仏さまにロウソクや線香をお供えする時も「火をいれる」、ロウソクの火を消すときも「火をいれる」と表現していました。
私にはその心はまだ分からないのですが、前回・前々回と祖父の言葉を紹介していましたら、ふと「火をいれる」という祖父の言葉が思い出されました。
それで言いますと、「とんちばなし」で有名な一休宗純さんが思い起こされます。室町時代に生きた一休さんは、5・6歳の頃に京都の安国寺に小僧とてして入ります。
あるとき、一休さんは仏さまに灯されていた火を消すために、息を吹きかけてしまいます。すると和尚さんから「息で吹き消すと、ロウソクの向こうの仏さまに息がかかって失礼だぞ」と叱られました。
次の日の朝、全員が仏様の方を向いてお勤めしているのに、一休さん一人だけが仏さまに背を向けてお経を読んでいました。
和尚さんが「お経をあげるときは、仏さまの方を向かないと失礼だぞ」と叱ると、一休さんは「仏さまに息がかかっては申し訳ないので、後ろを向いています」と答えました。
とんちばなしで有名な一休さんの「ロウソクの火」にまつわる面白いお話です。
皆さんもご存知でしょうが、お仏壇やお墓で仏さまにお供えしたロウソクの火を消すときは、息で吹き消さないのがお作法です。
それはなんでかと言いますと、私たちの口は不浄と言いますか、ときに濁ったりするからです。
人をほめたり讃えたり喜ばしたり励ましたり、またお念仏をとなえたりと素晴らしい言葉を発するかと思えば、人を傷つけたり悲しませたり泣かせたりと、真逆の働きをしてしまうのが私たちの口です。
「世の中は澄むと濁るで大違い」という言葉があります。意思が強くても濁ってしまうと意地になり、徳がある振る舞いも濁ると毒になり、善いことをいう口もひとたび濁ると愚痴ばかり放ってしまいます。
人の口から出る息というのは、濁った不浄にもなりえる危ういものです。そういう風を仏さまに浴びせるのはよろしくないということで、ロウソクの火を消すときに息を吹きかけるのはよろしくないというわけです。
ですので、一休さんのお師匠さんが言われたのは正しいことです。
皆さまも、ロウソクの火を消すときは直接息を吹きかけないように、手や団扇で扇いだり、ピンセットやお箸で芯をつまんだり、あるいは火にキャップを被せて消すようにしましょう。
さてそれから一休さんのとんちばなしにあるように、じゃあお勤めのときは仏さまに息を吹きかけて読経をしてもいいのか、と疑問に思われる人もいるでしょう。
これは後ろを向いておつとめしていた一休さんがおかしいです。お経を読むときは仏様の方を向きます。
その理由はお勤めをすることは仏さまの徳をほめたたえていることだから、また仏さまの教えを読み聞かさせていただいているからです。
仏さまが私たちのために伝えられた尊いお言葉なのですから、いくらこの私の口や心が濁っていたとしても、そのお経を読む口から出る言葉は仏さまの清らかな功徳なのですから、仏さまに対して失礼だとか、息を吹きかけてはいけないとかそんなことはありません。
お経を読むときは仏さまを真っすぐにみて、そして私がとなえた言葉ではあるんだけども、仏さまからのよびかけとして真っすぐに口にしましょう。
仏さまに息を吹きかけたら駄目と思わず、大きな声でお経を読んだりお念仏をとなえましょう。
2021年10月19日は「仏さまに息を吹きかけること」をテーマにお話しました。来週もまた聞いてくださいな。かっけいの円龍ラジオはポッドキャストでも配信していますので、「レビュー・評価・登録」してくれたら嬉しいです。
さて最後に余談ですが、2020年2021年は新型コロナウイルスが流行って、お坊さんも皆さまもマスクをつけて仏事にのぞむことが当たり前になりました。当初はマスクをしてお経を読むのは難しいのかなあと思っていのですが、すぐに慣れました。
むしろマスクがあった方が、一休さんのようにお経を読むときに仏さまに息を吹きかけたら失礼じゃないのって思う人にも、ピッタリなんじゃないのかなあと思いました。
それで言いますと、真言宗では宗祖の弘法大師空海に「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれるお食事の供えがあります。
有名な生身供は和歌山の高野山金剛峯寺奥の院で、今も修行されているとされる空海さんに、一日2回お食事をお供えしていますね。
今も空海さんが修行されているとされる高野山金剛峯寺の奥の院は神聖なところなので、食事だけでなく、水をくんだり仏具を磨いたり火を灯したりのお給仕されるお坊さんは、息を吹きかけないようにとマスクをして口を覆っているそうです。
さすがだなあと思います。
一休さんのとんち「仏様に失礼」
一休さんは室町時代に生きた臨済宗、つまり禅宗のお坊さん。両親は不明だが、父は後小松天皇とも伝わる。
どういうわけか、5・6歳の時に京都四条大宮付近にあった安国寺にて小僧となる。
幼いころから文才に優れ、17歳の頃に宗純(そうじゅん)と名のる。
1415年に京都大徳寺(臨済宗大徳寺派の本山)の弟子となり、あの有名な「有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから一休(いっきゅう)の道号を授かった。
小学館が出版している『一休さん』にも同様のお話があります。
なぜ仏壇のロウソクに息を吹きかけて消しては駄目なのか?
一般的な感覚でも、人や物に息を吹きかけることは、失礼であったり横着な感じがするでしょう。
とりわけ仏様や先祖をおまつりする仏壇やお墓のロウソクに対して、息を吹きかけることは、さらに失礼な感じがしませんか?
仏教では私たちの体や口や心は、必ずしも清らかではないことを教えます。
優しい思いやりのある態度を持っていたとしても、ひとたび濁れば相手を傷つけてしまいます。
そのような不確かな危うい私たちの口から出た息を仏様に浴びせるのは失礼だと考えて、仏壇のロウソクを消すときは、息を吹きかけるのを控えようとするのです。
お線香についた火を消すときもまた、息で吹き消しませんよ。
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世の中は澄むと濁るで大違い
- 福は徳なり、フグは毒なり
- 刷毛に毛があり、ハゲに毛がなし
- 為になる人、ダメになる人
- 多才が濁る、ダサイとなる
言葉が濁る(濁音「 ゛」がつく)と、日本語はとたんに意味が変わります。
お坊さんがする法話では次のような、澄むと濁るの違いを紹介されることがあります。
- 意思が濁ると、意地となる
- 徳が濁ると、毒となる
- 口が濁ると、愚痴となる
- 戒が濁ると、害となる
- 本能が濁ると、煩悩になる
- 報恩が濁ると、忘恩となる
単なる言葉遊びに思われるかもしれませんが、それだけ簡単に人間の振る舞いや言葉というのは、清らかにも濁りにもなってしまう危うい存在だということを教えてくれていると思います。
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