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第11回目のラジオ配信。「地獄と極楽」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
今回は、「地獄ってどんな世界なの?極楽とどう違うの?実は地獄と極楽って同じような世界なの」っていうお話をします。
浄土真宗のお坊さんの私はこの前、お参りに行きましたら、ご門徒さんから「極楽という世界はどういうところなんですか?」っていう質問になりました。
そのような質問をされたので、私は仏説阿弥陀経の話をしようとしたんですね。阿弥陀経には、西方極楽浄土の仏さまである阿弥陀仏の極楽がどんな世界であるのかが説かれているんですね。
すると質問したその人は、「いや、もうその阿弥陀経のの話は何度も聞いたので、それ以外の話も聞きたい」って言ったんです。
そうですか、じゃあ浄土三部経にある阿弥陀仏の極楽の話ではないんですけども、こんな例え話がありますよということで、仏教の有名なお話をさせていただきました。その話を今からします。頭の中でしっかり光景をイメージしてくださいね。
とあるところに物好きな人がいました。その人は生きているうちに、地獄と極楽がどんな世界なのか見てみたいなあと思いました。
その人は、まず一番最初に、恐ろしい世界だと思っている地獄の様子を見に行ったんです。
きっと地獄は金棒をもった鬼が殴ってきたり、針の山に投げ捨てれられたり、火の海で焼かれたりと苦しい世界だろうなあと思いながら覗きました。
でも地獄をみてみると、その人はビックリしたんですね。
地獄の世界の中には、大きなテーブルがあって、その中央においしそうなごちそうが山のように盛りつけられていたのです。
地獄って怖い世界と聞いていたけども、なんのなんのこんな素晴らしいごちそうが食べられるんだと、その人は思ったんですね。実際、その大きなテーブルの周りには地獄の人がたくさん群がっていました。
でもよくよく見てみると、テーブルを囲っている人たちの手には、柄がとってもとっても長~いスプーンになっていて、手に縛り付けられていたんですね。
柄の長~いスプーンで、テーブルの中央にあるご馳走をすくうことができても、自分の口に運ぼうとしてもこぼれてしまって、食べることができないのです。
その様子をみて物好きな人は、ご馳走が目の前にあってもどうしても食べることができない、手に取ることはできても食べることができない、これが地獄の苦しみかとわかって、地獄には落ちたくないなあと強く思いました。
続けてその人は、極楽の世界を見に行きました。
地獄と違って、天女が舞ったり、美しい音楽が響いている素晴らしいところだろうなあと期待して覗きました。
でも極楽の様子を見たその人は、ビックリしたんですね。だって、さっき見た地獄と同じ光景が極楽にもあったからです。
大きな大きなテーブルの真ん中に、たくさんの豪華なごちそうがあったんですね。地獄と同じように、テーブルの周りにはやっぱりたくさんの人が座ってたんです。その極楽にいる人たちもみんな、自分の手に長い長いスプーンが縛りつけられてたんです。
それを見た物好きな人は酷くがっかりしました。地獄も極楽もおんなじ世界じゃないんかと。
がっかりして帰ろうとしたとき、極楽の人たちは、みんな満足そうな顔をしていたことに気がついたんです。
なんでだろうと思ってよくよくその様子を見てみると、極楽の人は自分がすくった食べ物を、自分のスプーンが届く範囲の人の口に分け与えてたんです。決して自分の口に入れようとはせずに。すると自分の口にも自ずと他の人がすくった食べ物が運ばれてきていたのです。
それを見て物好きな人はハッと気がつかされました。
地獄は恐ろしい世界だろう。極楽は夢のような幸せな世界だろうと想像していたけれども、実はどっちも一緒だったんだ。
違っていたのは、そこにいる人たちの心がけのことなんだと気がついたんです。
この地獄と極楽のたとえ話から言えるのは、地獄の世界の人は、自分のために・自分の利益のことしか考えられないんだ。でも極楽は、お互いのことを思いあうことができる世界なんだと。
さていかがでしたか。仏教の有名なたとえ話をしてみました。
浄土真宗ではありのままを受け入れるという考え方があります。目の前の状況は変わらなくても、自分たちの心の有り様・物事の見方が変われば、実は一見苦しみのような世界でも、相手のことを思いやること、お互いに敬いあうこと、お互いに助け合える、お互いに幸せになれるそういう風な世界があるんだと転じることができます。
それがこの地獄と極楽の世界から分かってくるんです。
ラジオの補足
「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。