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第182回目のラジオ配信。「布教使」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
この番組では香川の浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いお話をするラジオです。
お寺では定期的に仏教法要が営まれます。
先日の4月4日は私のいるお寺・円龍寺でも、春の永代経法要がありました。
お寺の法要では大勢のお坊さんやご門信徒の皆様がお参りに来て、お経を読み、そして仏教法話をします。
仏教法話のことを布教とか説法とか説教とかいろんな表現をしますが、どれも同じような意味合いです。
それで私の寺では必ず毎回、他所から布教使の先生をお招きしています。
お寺さんによっては、他所から布教使をお招きせずに、自前で、自分のところの寺の住職や僧侶がお話をすることがありますが、円龍寺ではそのようなことをしていません。
その理由について今回お話していきます。
さて、お寺での法要、仏教行事のことを、ご法座とも表現しますよね。
浄土真宗の言うご法座とは、仏さまのお話、仏法を聞いていく場所という意味です。
お寺で法要があるからと、お寺に行っておロウソク料やお仏飯米のお供えだけをしてそのまますぐに帰るのではなく、仏さまのお話をしてくださるお坊さん、布教使のお話を最後まで聞くことがご法座のご縁です。
お寺がご門信徒の皆様にぜひご法座にお参りくださいませと呼びかけているのは、ぜひ最後までお話を聞いてくださいとのことです。
仏さまのお話、法を聞いて、自分の物差し、自分の計らいとは違う世界があるというのを味わっていくのがお聴聞です。
何か役に立つことを学ぼうとして聞くのではなく、浄土真宗の教え、お念仏の味わいをすこしずつ体に通していく中で、仏さまに願われている身であることに気がついていくことが、浄土真宗のご法座のお話を聞いていく大切なことです。
信心がないからお話を聞かないのではなく、信心があってもなくても構いません。まずは仏さまのお話を聞いてほしいのです。
それで話を戻しまして、なぜ私のいる寺、円龍寺では寺のご法座のとき、自坊の僧侶は布教・お話をせずに、他所から布教使をお招きしているのでしょうか。
その理由は、いろんな方の、いろんなお坊さんの口からの、仏さまのお話を、お参りの皆様に聞いてほしいからです。
今の時代は、インターネット上でも本でも仏教の話はあふれています。
しかしあふれているからと言って、それが果たして仏法をいただくことにつながっているかと言えば、微妙なところではないでしょうか。
知識としてあれはこうだ、それはこうだと理解するのは、今の時代は便利でしょうが、お寺での法座はまた違います。
お寺でのご法座のお話は、仏法の味わいをとるのが大事なことです。
例えるならば料理を食べるようなものです。
いくらテレビや本で美味しい料理が並んでいても、実際に口にしないと香りをかがないとその美味しさは分からないですよね。
また体に必要な栄養を取るために、サプリメントだけで十分という人はいませんよね。甘いのも辛いのも酸っぱいのも苦いのもとかいろんな風味を噛んで飲みこんで味わって、そのものの良さが体に染みわたっていきますよね。
仏法を聞くのも似たようなことで、仏さまの教え、仏法の情報は社会にたくさんあふれていますが、それを自分が味わうには、実際にお寺にお参りし手を合わし、周りの人たちと一緒にお話を耳にする中で、味わうこともできます。
その際に、いろんなお坊さん、布教使の先生のお話を聞いてほしいなあと、ご法座を開くお寺の住職は思っているわけです。
お寺のご法座にお参りに来られる方というのは、大抵、そのお寺のお坊さんに、お祥月や法事や葬儀のお参りをお願いしていると思います。
ですのでそのお寺のお坊さんと顔なじみで、そのお坊さんのする仏さまのお話というのも耳にしたことがあるでしょう。
仏事が重なると年に五へん十ぺんと続けてお会いすることもあり、似たような話を聞き、仏さまのお話を聞かれる方もなんなく徐々に新鮮さを感じにくくなってしまいます。
そういうわけで、お寺でのご法座では、他所から布教使をお招きして、その寺のお坊さんがする話とはまた違った角度からのお話をしていただくというわけです。
せっかくご都合をつけて寺の法要にお参りして、お話を聞いてくださっているのだから、いつもとは違ったお坊さんがする仏さまのお話を聞いてほしいわけです。
いつも会うよく知ったその寺のお坊さんがお話するのは、せっかくお寺に来てくださった方に対して、失礼とは言いすぎですが、仏法のご縁を広げるのにあまり役立っていないように感じます。
自分の寺の法要でお話しなくても、法事のときやお祥月のお参りのときなど、いつでもお話しできるチャンスがあるんですから、寺の法要では他所からお坊さんをお招きしてお話していただいた方がいいと私は思います。
やっぱりお話するお坊さんによって、同じ仏さま、仏法のお話でも切り口も違いますし、伝え方も違います。
いろんな人のする仏さまの話を聞いて、ますます仏法の味わいをとっていただけたらなあと思います。
それがお寺でするご法座の意義だと思います。
いっつも同じお坊さんがするお話を聞くのは味気ないなあと思います。
そんなわけで、私のところの寺では、寺での法要のときには、必ず他所から布教使をお招きしているというわけです。
おそらく他の多くのお寺さんでも、同じような理由で、自分の寺のご法座では、他所のお坊さんに布教していただくように依頼していると思います。
以上で今回のお話、自分の寺で、布教をしない理由についてのお話を終えます。
ちなみに、私の寺にはマイルールがあります。
それは同じ布教使をお招きするのは、最大でも連続3年まで、一年は必ず間隔はあけるというルールです。
このマイルールは、お参りの方たちに、できるだけいろんな布教使のお話を聞いていただきたいからです。
5年後や10年後に、またご案内をすることもありますが、あんまり同じ人を招かないようにしています。
もちろんお参りの人からあの布教使はよかったなあ、あの布教使のお話がまた聞きたいなあというご要望があれば、早めにご案内を再開することも検討します。
要望も参考にしますが、それでもなるべく布教される方が偏らないようにもと考えています。
それと当たり前のことを言いますが、私はある一つのお寺のご門徒だからといって、別の他所のお寺の法要、ご法座にお参りに行けないとか、お参りしたらダメとかそんなわけはありませんよ。
春や秋のお彼岸の頃にはいろんなお寺で法要があります。自分のところの檀那寺・菩提寺だけお参りするのではなく、ご縁があれば、ご都合があえば、ぜひ他のお寺のご法座にも参加していただければと思います。宗旨・宗派が違っていても問題ないです。
すると色んな方がする仏さまのお話を聞くチャンスにも出あいますし、あの聞きたかった布教使のお話にまた出あうかもしれません。
私の住んでいる所は香川県丸亀市の金倉町というところで、そう大きくはないところですが、町内に5つのお寺があります。
熱心な方は、自分の檀那寺だけでなく、他所のお寺のご法座にもお参りして、お聴聞されてらっしゃる方もいます。
ぜひお寺のご法座に参加して、いろんなお坊さんのお話を聞いていただけたらなあと思います。
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