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第189回目のラジオ配信。「百度石」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
かっけいの円龍寺ラジオ
これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをするラジオです。
この前近くの神社に立ち寄ったところ、鳥居のそばに百度石が置かれてたのを見ました。そこで今回は、百度石について短く雑談をしていきます。
さて皆さんは、百度石という言葉を耳にしたり、または百度石そのものを見たことはありますか?
百度石のあるお寺や神社もあれば、百度石のないお寺も
あります。
私の住んでいる香川県の丸亀市周辺では、百度石はそんなに置かれていないように見えます。
私のところの寺、円龍寺にも百度石は置かれていません。
百度石とは、一つの神社や寺を連続百日間、あるいは連続百回お参りする時に、今何回目のお参りだったのかを忘れないためにカウントする石の道具のことです。
百日間連続してお参りする理由は、どうしても叶えたいお願いごと、切羽詰まったお願いごとを神様や仏さまにする際、一度よりも100回連続でお参りした方が、その願い事がきっと成就しやすい叶いやすいだろうということで、百日間連続でお参りするそうです。
元々は百日間毎日連続でお参りするというものだったらしいですが、今では百日間連続でお参りしなくても、一日のうちに百回連続でお参りすることでもいいと簡略化されているようです。
そういうわけで、百回神様や仏さまにお参りする性質上、百度石は鳥居のそばや門のそば、参道の入り口といった、神様や仏さまを拝む、拝殿や本堂と少し離れた所に置かれていたりします。
百度石の形はさまざまで、単に「百度石」とだけ刻まれている石柱だったり、あるいは石柱に灯籠の火袋のような空間があって、そこに数をカウントするための玉が備え付けられていることもあります。
私の住んでいる近くにある真言宗善通寺派の総本山善通寺では、四角の形をした板のそろばん玉で数える百度石と、その隣に、何も数える玉の備え付けられていない百度石の2種類が置かれています。
数える玉が設置されていない百度石の場合、どうやってお参りの回数を数えるかと言うと、お参りするたびに小さな小石をその百度石の上や中の空間、またはその百度石の近くの地べたのところに置いて数えていきます。
百度石そのものが置かれていない場合は、持参した数珠・念珠のたまを繰っていって、手元で数えるという方法をとるようです。
さて、ここまで神社やお寺の百度石についてお話しましたが、こと浄土真宗に関して言えば、浄土真宗では百度石は馴染みのない道具です。
というのも例えば、浄土真宗ではお参りされた記念として御朱印をおさないというのは有名な話ですよね。
浄土真宗ではお寺に何度お参りしたのかというのは重要視していないというのが理由になります。
浄土真宗では仏さまや神様に対して私の願いごとをお願いするのではなくて、仏さまからの願い、お寺の法要にお参りし仏法を聞いていくことを大切にするので、10回お参りすればとか、100回お参りすれば、何かご利益があるとかそんな考えはないんですね。
だから浄土真宗のお寺では、百度石というお参りの回数をカウントする道具というのは、なかなか目にする機会はないと思います。
もちろん最近では浄土真宗でも御朱印を用意している寺もあるそうなので、お寺によっては浄土真宗でも百度石を用意しているかもしれません。
私の住んでいるところは香川県で、真言宗のお寺もそれなりに多く、特に香川・徳島・高知・愛媛の四国四県では四国八十八ヶ所霊場というのがあり、浄土真宗のご門徒さんの中でも、八十八の寺を100回巡った記念の錦札を額に入れて仏壇に飾ってあることもあります。
100回巡った記念の錦札は、お守りの意味合い・ご利益があると信じられているようです。
ご利益を信じて100回以上お参りするのは別に構いませんし、それが励みになるのであればそれも構いませんが、浄土真宗の場合だけでいうと、100回以上お参りすれば何々があるといった考えはないというのを心に留めて置いていただけたらなあと思います。
さて今回は、神社やお寺に置かれている百度石の話をしました。
百度石は神様や仏さまに対して、どうしても叶えたいお願いごと、切羽詰まったお願いごとをする際、その私の願い事が成就するようにと、百日あるいは百回連続でお参りするその回数を数える道具です。
ただ浄土真宗の場合は、仏さまに対して願掛けをしないことや、お参りした回数が大切ではないといったことから、浄土真宗の寺では百度石が置かれていないといった話をしました。
以上で今回の百度石についてのお話を終えます。
ちなみに余談として、百度石のことはお百度ともいいます。
お百度とは、お百度参りとも、百日詣でとも言います。同じところに百日間続けてお参りするといったことです。
浄土真宗では百日間続けてお参りするならわしは現在ではありませんが、浄土真宗が起こる前の出来事に、宗祖の親鸞聖人がまだ自力の修行をしていたころ、師の法然上人に出会う前、比叡山の山を下りた時、京都の頂法寺の六角堂に100日間続けて参篭するということをしていました。
仏道修行に行き詰った自分の進むべき道を、神仏に強く求める思いが、親鸞聖人の100日間、六角堂に参篭するという強い行動につながったのだと思います。
なので、私は今の浄土真宗の立場から、連続して100回お参りすることにご利益という面での意味はないという考えですが、誰か他の人が、強い思いをもって、何か目的があって神仏に頼って100回お参りすることを否定しているわけではありません。
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