法名と院号はどう違う?#291

第291回目のラジオ配信。「法名と院号」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

浄土真宗に戒名(かいみょう)はありません。法名(ほうみょう)をいただきます。

戒名は戒律を受け、それを守って生活していく仏教者がいただく名前です。

法名は厳しい戒を必要とせず、阿弥陀仏の救いのはたらき(法)によって人生を歩んでいく名前です。

戒名も法名のどちらにも「釋(しゃく)」の一字が必ずつきます。仏教を開かれたお釋迦様(釋尊)のお弟子になった証しです。

内容まとめ
  • 院号は亡きその人の生前を偲ぶためにある
  • 院号は後の人たちがその人のことを想い、その方が残された功績、徳を讃えるために贈られる名前
  • 法名は生きている間にいただく
  • 法名にはこういった人になってほしいという願いがかけられている名前
  • 本願寺では蓮如上人が最初に院号を贈られている
  • 宗祖(釋親鸞)には院号がない
  • 本願寺の歴代の院号の多くには「信」の一字があり、大切なメッセージなのだろう
  • 興正派の歴代門主の院号には「心」や「よろこび」といったメッセージがある
  • その方はどのような人物だったのか、残された私たちに示したかったことが院号から伝わってくる
  • 宗祖は宗祖であるだけでその恩徳が示されている
  • 宗祖の遺徳を数文字の院号で表すのは難しい
  • 宗祖に院号がたとえなくても、宗祖を敬い偲ぶことができる

かっけいの円龍寺ラジオ

これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいの音声配信です。

今回は浄土真宗の院号と法名についてのお話です。

浄土真宗のお寺で生まれ育った私は小さいころから不思議に思っていることがあります。

なぜ宗祖には院号がないのだろうかと。

浄土真宗の宗祖は親鸞聖人です。法名は釈親鸞ですね。

でも院号はないんですよね。

考えてみますと、他の仏教宗派の宗祖たちにも法名戒名はあっても院号はないように思います。

私は子供の頃からこれが不思議でたまりませんでした。

今回はそんな私の子供のころからの謎、院号と法名についてのお話を短くしていきます。

私が思うに浄土真宗の院号はその人の生前を偲ぶためにあるのだと思います。

この方は生前どのような人だったのか?

どんなことを私たちに示してくださったのか?など

後の人たちがその人のことを想い、その方が残された功績、徳を讃えるために贈られる名前だと思います。

一方で法名は生前に名づけられるものです。

「この人はこんなことを大切にしてほしい」

「こういう人に育ってほしい」など、周りの人からの願いとして名付けられている名前です。

もちろん私かっけいにも願いが込められています。

お坊さんの私の法名は釋克啓です。かつは他の何かと比べた勝った負けたではなく、私自身の人生の中にあるいろんな困難を乗り越えていく言葉です。

けいは周りに伝えていくとか、教えを広めるといった言葉です。

私かっけいの法名は、自分のことだけじゃない、内と外のどちらにも目を向けられるような人、そんな人生を歩んでほしいという願いが込められていると思います。

簡単にまとめると、法名はこういった人になってほしいという願いで生きている間にいただくものであり、院号は今は亡きその人を偲ぶために後から贈られるものになります。

他の仏教宗派で名づけられる戒名もおそらく、生前にこういった人になってほしい、戒を大切にする生活をしてほしいという願いでいただくのだと思います。

さて、浄土真宗で一番有名な院号は蓮如上人の院号でしょう。

本願寺ではおそらく蓮如上人から院号が始まっています。

本願寺派は本願寺8代目の蓮如上人のはたらきによって、大きく盛り上がるようになります。本願寺にとって蓮如上人の功績は大きく、蓮如上人はこういう人だったとその徳を讃えるために院号が贈られたのではないだろうか?

本願寺の歴代の門主の院号を見ると、ほとんどの人に「信」の文字が入っています。おそらく本願寺派では信心の「信」、信ずるの「信」を大切なメッセージにしているのだと、私は本願寺派の歴代の門主の院号から感じました。

一方で、私の属している浄土真宗の興正派のここ300年400年くらいの歴代の門主の院号を拝見すると、「心」または「よろこび」が重要なメッセージであるように感じます。

院号を見ると、その方はどのような人物だったのか、残された私たちに示したかったことが伝わってくると思います。

繰り返しますが、私は院号にはそんなはたらきがあると思うんですね。

法名とは生前に、阿弥陀様からの仏法をいただき仏さまのお話を聞き、こんな風な人になってほしい、こんな人生を歩んでほしいという願いが込められて名づけられたものです。

院号は、その人がどんな人であったのか、何を私たちに示してくださったのか、後の人がその人を偲ぶお名前だと私は思います。

さて、それではなぜ宗祖には院号がないのでしょうか?

私が想像するに、宗祖は宗祖で偉大であり、二文字(または数文字)で、その恩徳を表すのは難しいのだと思います。

また色んな宗派の想いをまとめた院号を宗祖に贈るのは難しいのだとも思います。

例えば浄土真宗の宗祖は親鸞聖人ですが、浄土真宗は現在10以上の宗派に分かれています。

それぞれの宗派で共通する宗祖の院号一つを名づけるのは難しいでしょう。

それぞれの宗派による宗祖への思い、遺徳を讃えようとしたら、それこそ10文字以上の長々しい院号が必要になってくるのではないでしょうか?

今、私はこう思っています。

宗祖は宗祖であるだけでその遺徳が示されているので、院号が必要ない。

院号を贈ろうにも宗祖がされてきた働きがあまりに大きく、院号がなくても、宗祖を敬い、偲ぶことができる。

だから宗祖に院号はいらないのだと思います。

ここで短く宗祖の遺徳を振り返ると、宗祖親鸞聖人がされた恩徳は、私たちに阿弥陀仏の本願念仏の教えを明らかに示し、阿弥陀仏からの本願を信じることの大切さを生涯かけて広められました。

宗祖に院号を!という運動は今はないですが、もしかしたら100年後や遠い将来には院号をつけようという動きがあるかもしれません。

でも宗祖に院号はつけられないと思います。だって、宗祖の遺徳を表すには数文字では全然足りないですからね。

ちなみに浄土真宗の宗祖親鸞聖人には見真といった贈り名があります。

これは他の仏教宗派の宗祖にもあったりします。例えば真言宗空海さんには弘法、天台宗最澄さんには伝教。浄土宗法然さんには円光などがありますが、これらは大師号であり、政権や天皇が後から与えた名前です。

宗派が贈る院号とは関係ないので今回のお話では省きます。

以上で、今回は法名と院号はどう違うのか、なぜ宗祖には院号がないのかのお話を短くしました。

ここからは余談を二つ言いますね。

余談一つ目は、法名は生前、生きているうちにいただくもので、院号は亡くなった後に贈られるものと先ほど説明したんですが、実は生前院号というものも最近はあるんですね。

私は院号は、残された人たちが、亡き人の生前の功績を讃え偲ぶものだと思っているんですが、最近では院号は頼めば生前にいただけるそうです。

院号は望めばいただける時代になっています。

もう一つの余談は、自坊円龍寺のこれまでの住職の院号をみると夫婦でセットになっているように感じます。

例えば、慈しみ顕かの慈顕院と光顕かの光顕院、

開く化と西の化の開化院・西化院、化とは教え導くという意味です。

直近の先代住職夫婦、私の祖父母だと、清祥院と清心院で、清いよろこぶと、清い心の院号です。

後の時代の人が振り返るとき、この2人が手を携えてこのお寺を支えてくださったんだなあとわかるために、自坊では夫婦で似た院号にセットになっているのかなあと思います。

院号にはこんなつけ方の例もあるよという余談でした。

ちなみに法名は夫婦でもお互いにまったく関係のない名前になっていますよ。生前に名づけてますからね。

かっけい
かっけい

ちなみに生成AIに「なぜ宗祖に院号がないのか」質問してみました

生成AIによる回答は次の通りです

4つの理由を挙げています

宗祖に院号がない理由(AIによる説明)
  1. 宗祖としての功績と地位
    宗祖は宗派を創始し、仏教を広めたという大きな功績と地位があるため、院号に相当する称号は既に与えられているとみなされる
  2. 法名の最高位性
    宗祖の法名はその宗派における最高位の名前として扱われるため、院号に相当する称号を別途必要としない
  3. 寺院への貢献
    院号は寺院への貢献に基づいて与えられることがあるが、宗祖は宗派の開祖として、宗派全体の発展に貢献しているため、個別の寺院への貢献を評価する必要がない場合が多い
  4. 宗派の教義
    宗派によっては、院号を付けること自体に意味がない、または院号を付けることが教義に反するとされる場合もある

「宗祖には、一宗を開かれた祖師として、すでに十分な功績と地位が広く認められているので、院号を必要としないんだ」と生成AIは説明しているようですね

法名に関しては以前、「使われる漢字・使われない漢字について」話したことがあります

下にリンクをのせておきますね

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