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第91回目のラジオ配信。「時の記念日」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)
2021年6月15日の今回は、時期がちょっと過ぎましたが「時の記念日」をテーマにしてお話ししていきます。
6月と言えば、国民の祝日がない月というイメージを持っている人も少なくないと思います。正確には平成の天皇が退位されたので、2019年からは12月も国民の祝日のない月になっているのですが、戦後決まった法律では6月だけが今もなお国民の祝日がありませんよね。
さてそんな中で、6月10日は時の記念日となっています。これは671年の6月10日に天智天皇が水時計をつくり、そこから人びとに時を知らせる鐘を鳴らしたという日本書紀の故事が由来となっているそうです。
天智天皇は奈良の大仏をつくった聖武天皇よりも7代くらい前の天皇で、奈良の大仏ができるよりも80年ほど前に水時計を設置したんですね。
今では誰もが身近にスマホや携帯電話やテレビを見ていて、時間にありがたみを感じることも少なく、時の記念日を気にする人もその日が6月10日だということも覚えている人も少ないと思います。
時を知ることができるのは本当は国民の祝日になってもいいんじゃないかなあと思えるほどの大きな出来事ですが、あんまりありがたみを覚えにくいので、祝日にはならないのかなあとも思います。
6月10日が時の記念日と知らない人もいるでしょうが、私は時の記念日がたまたま印象に残っています。というのも、香川県丸亀市には丸亀城というお城があるからです。
江戸時代までは人びとは時計を持つことはなく、お城やお寺の太鼓や鐘の音を聞いて、時刻を知っていたんですね。
丸亀城の大手門は太鼓門とも言われて、太鼓を叩いて時刻を知らせていたとされます。丸亀城は現在も毎日正午12時に大手門で時太鼓を鳴らしていますので、丸亀市に住む私からすると、時を告げる太鼓というのはけっこう身近な存在でした。
それと6月10日という日にちですが、これは私独自の覚え方で、子供の頃に読んだマンガの内容から記憶に残っています。
私が子供のときによく読んでいたマンガに遊戯王というカードゲームのお話がありました。その中で時の魔術師という時計の見た目をしたカードモンスターと、遊戯王の主人公の武藤遊戯の名前が組み合さって、武藤から「む・とう」、「6・10」という感じで、時は6と10の印象が強く、時の記念日は6月10日と何んとなしに覚えてしまいました。
さてそんな「時」のお話ですが、「時間は平等」とも言われたりしますよね。
当たり前のように聴こえるセリフですけども、私にはすこし疑問に感じる言葉でもあります。
例えば、私は今回6月10日頃に香川県の南の方に位置するまんのう町に出かけました。同じ香川県の中西部に住んでいますが、ちょっと南に20キロメートル弱行くだけで、違った景色になるんですね。
栗の独特な匂いがするなあと思って山を見ると、満開の栗がびっしり咲いていました。でも私の家の栗の木はもう咲き終わっています。ビワの実も私の家ではもう収穫終わりですが、まんのうの方では黄色からオレンジに染まりかけていて収穫最盛のように見えました。お米の苗も私の周りではこれから植え始めるのに、あちらではもう田植えが終わっていて草丈も30㎝ほどに伸びていました。
狭い香川県で同じように時を過ごしていてもやはりどこか生活が違っているのに、これで本当に私たちは同じ時を平等に与えられているのかなあ過ごしているのかなあと疑問に感じました。
また「1日24時間はすべての人に平等」と言われたりしますよね。
でも例えば、集中しているときや興味のあることを経験しているときは時間があっという間に過ぎるように感じますよね。一方で、つまらない退屈なお話の時には時間がなかなかすすまないように感じませんか?
時間は平等と言いながら、その人その状況によって時間の過ぎ方が全然違うように感じるのに、平等なんでしょうか?
そもそもですが24時間という時間の割り方は、今から3000年以上昔の古代エジプト人が太陽から日時計を作って、一日を24分割したことが由来とされています。
もしかすると一日が20時間や25時間という歴史だってあったかもしれませんし、これから1000年後や1万年後先の未来では、24時間ではない時だって来るかもしれませんよね。
もちろん24という数字は中途半端な数字のようにも思えますが、割り切れる数字が他の1から25までの数字と比べて多く、時間を分割したりするには特に便利だから、今までもずっと使われ続けているんだろうなとは推測できます。
時というのは不思議なもので、時の記念日が定められた理由も、日常生活を合理的にして時間を正確に守るためだったとされます。時の記念日ができたのは1920年のことで、日本の近代化が進んでいるときで、外国の人と時間を合わせて話し合いをしないといけないですし、郵便や公共の乗り物は決まった時間に動かないといけません。
それまでの日本人は日の出から日の入りまでの昼の時間を6分割した時間の捉え方でした。夜は夜でまた別に6分割していました。生活するうえでは不便のないものでしたが、季節によって昼・夜の長さが変わると一時間の長さも変わるため、
日常生活を合理化するために、現在のように一日を24分割するようになっていきました。
でもですね。時間は正確に守るものというのが時の記念日ですが、私は時間の捉え方はある程度はあいまいでも良いと思いますし、その状況によって都合よく変えていくこともあると思います。
田舎時間に思われるかもしれませんが、例えば自治会での川のごみ拾い・清掃・草抜きがあったとします。朝7時に集合の約束があっても、実際7時に行くともう清掃草抜きが終わって、「もう解散しますよ」みたいな感じになっているんですね。皆さん30分前には来て既に始めています。
慣れないうちはなんで集合時間前にすでにはじまっているのかとビックリするでしょうが、地域の人がみんなで集まることの時は、約束の時間よりも早く集まって始まるのが、私のところでの時間の流れです。
家での法事でも似たようなことがあります。
コロナ禍よりも前のお話ですが、例えば午前9時開始予定の法事があったとします。でも実際は9時を少し過ぎた、9時10分くらいから法事がはじまったりします。
それはなんでかと言いますと、香川県の中西部では法事の前におうどんの軽食を振舞うことが多く、それをお参りの人やお坊さんも食べるといった理由もありますし、朝9時開始の法事は県外から来られた遠方の人には時間がきつく、息を入れられるように、私の円龍寺のところでは、朝9時開始の時は少し余裕をもって開始を遅らせ気味にはじめます。
もちろん全員準備万端に待っていればすぐに始めますよ。
これが仮に朝10時開始の時は、10時よりも少し早く開始します。というのも法事の時間が2時間ほどになると、お昼の食事とぶつかりますし、食事を配膳する人も困りますし、法事の後のお墓参りも困ります。だから10時開始の時は、実際は10時よりも早めに始めたりします。
こんな風に今私たちは、簡単にきれいに分割された正確な時間を知ることができていますが、世の中全部が全部カチカチと約束した定刻で動いているわけではないので、ある程度あいまいに、そしてその地域ごとの時間の流れも大切にしていった方が良いんじゃないかなあと思います。
さて最後に余談ですが、仏教には法輪というシンボルマークがあります。今から2300年前にインドのアショーカ王がお釈迦様ゆかりの地に行き、インド各地に石の塔を建てます。その石の塔、石柱にダルマという法輪のマークを施しました。
法輪とはお釈迦様の教え・仏法が、乗り物の車輪のように、仏の教えが各地に広がっていくことを表します。
日本の法輪は線が8本に対して、インドの法輪は線が24本のデザインです。
日本の8本の線は四方八方に仏法が広がることと、八つの正しい道を表しているとされます。
一方で、アショーカ王の24本線の法輪、現在のインド国旗にも含まれている法輪は、一日24時間、いつでもどこまでも仏法が広がることを表現しているとされます。
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