新しい「領解文」を拝読して.ラジオ#180

第180回目のラジオ配信。「領解文」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

ラジオテーマ「領解文」内容まとめ
  • 2023年1月16日に浄土真宗本願寺では『新しい「領解文」』が制定された
  • 従来の領解文は蓮如上人が作ったとされる
  • 従来の領解文は古典的な表現で現代では人びとの理解を阻むとのこと
  • 分かりやすい言葉で表現、正確に伝わるようにしたらしい
  • 浄土真宗のお坊さんの私にとっては分かりにくい、理解しにくい、首を傾げる内容だった

かっけいの円龍寺ラジオ

この番組は香川県に住む浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをするラジオです。

2023年の今年は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人が生まれて850年の年、それと浄土真宗が起きて800年という節目の年になります。

これからの春以降、各地でいろんな記念のイベントがあることでしょう。

例えばつい数日前のニュースだと、宗祖親鸞聖人が9歳の時に、京都の青蓮院、青い蓮の院で頭を丸めて、お坊さんの仲間入りをしたわけですが、その時に使ったと伝わるかみそりが初めて公開されて、青蓮院から浄土真宗大谷派の東本願寺に一時的に貸し出されているとありました。

また、ひと月以上前のことですが、新聞を見ていましたら、別のとっても興味深い記事と出会いました。その内容は、浄土真宗の本願寺派の本山本願寺で、2023年1月16日に新しい領解文が制定されたというものです。

そこで今回は領解文について短くお話していきます。

なお、あらかじめお伝えしておきますが、ご尊派本願寺さんを批判するつもりは一切ありません。

ただ新聞記事をみて、新しい領解文を見て、私が感じたことをただ話していこうというのが、今回のラジオの内容です。

さてそもそものお話ですが、領解文が何なのか、知らない人も多いと思います。

領解文というのは、阿弥陀仏の教え、お念仏のいわれを聞いた人たちが、それぞれの言葉をもって、そのいただいたご信心、自身の信仰を明らかにしていくこと、告白した文章のことを領解文といいます。

なかでも本願寺の蓮如上人がつくったとされる500年以上昔の領解文が、浄土真宗の肝心かなめなことを分かりやすく書き表しているので、領解文といえばこれと領解文のお手本のようにして扱われています。

ただし先ほども言いましたように、領解文、お領解の内容とは、人それぞれ違うものであり、この領解文一つだけが正しいんですよと決められるものではありません。

南無阿弥陀仏のお名号、阿弥陀仏の救いのはたらき、ご信心をいただき、いろんな人生を歩んできたそれぞれの人がそれぞれの言葉で表していいのが、領解文というわけです。

私のお領解があれば、あなたのお領解もあるというわけです。

そんなのがある中で、今回、本願寺は新しい領解文というのを制定したようです。

まずは昔からある領解文について読んでみますね。

本願寺の蓮如上人がつくったとされる従来の領解文です。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけそうらへとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝とよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世のご恩、次第相承の善知識のあさからざるご勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

この文章は、本願寺派でない私のところの派でも、お経本の最後の方にのっていたりします。

ちょっとお経本を開いて確認してみてください。

今の文章と同じ言葉がのっているかもしれません。

さて、続けて浄土真宗本願寺派の本山本願寺が出した新しい領解文もこれから読んでいきます。

ちなみにこの新しい領解文にはカッコつきで(浄土真宗のみ教え)とわざわざ書かれています。

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます

この新しい領解文が出された理由として新聞には次のように書かれています。

かつての領解文の古典的な表現が現代の僧侶や門徒、一般の人びとには理解を阻むと考えたからだと。

また時代状況や人びとの意識に応じた伝道方法を工夫し、伝わるものにしていかなければならないともあります。

1月16日には本願寺の公式サイトや本願寺新報の新聞で、大谷光淳(こうじゅん)ご門主のお言葉が全文紹介されています。YouTube上でも公開されています。

この音声をアップロードした私の円龍寺ブログでも、該当ページにリンクを貼っておきますので、よければご確認ください。

その1月16日の本願寺ご門主のお言葉によると、「わかりやすく伝えることが大切であること」、「そのためには時代状況や人々の意識に応じた伝道方法を工夫し、伝わるものにしていかなければ」とあります。

また「理解における平易さという面が、徐々に希薄になってきた」、「念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し」、「ご法義の肝要が正確に伝わるような」とも説明されています。

つまりこの新しい領解文(浄土真宗のみ教え)は現代に即した、現代に生きる人のための、浄土真宗の教えがわかりやすくかつ正しく伝わるように作られた文章というわけです。

ですが先ほど、新しい領解文を拝読しましたが、皆様はどう感じましたか。

本願寺さんを批判するつもりはまったくありませんが、私はこの新しい領解文を読んでも聞いても、浄土真宗の教えがただしく分かりやすく伝わるとは到底感じられなかったです。

むしろ首を傾げながら読んでしまったほどです。

おそらく100人いたら99人以上は、この新しい領解文を読んで理解できないのではないでしょうか。

決して古くから読まれていた領解文をそのまま現代語に訳するのが新しい領解文の形ではないとは思いますが、それにしても新しい領解文はよく分からない表現が書かれています。

浄土真宗のお坊さんですら首を傾げるのだから、初めてこの文章にであった人たち、子どもたち、お年寄りたちはなおのこと浄土真宗の教えをただしく理解できないと思います。

例えばほんの少しピックアップしますと、「私の煩悩と仏の悟りは本来一つゆえ云々」という箇所があります。

言いたいことは分からなくはないですが、浄土真宗の教え、阿弥陀仏の救いのはたらきを知らない人からすると、すっごく誤解を生みそうな文章だと感じました。

仏さまの智慧から見た衆生の煩悩が、仏の悟りと一つと言えるでしょうが、凡夫の私たち側から私の煩悩と仏の悟りは一緒だとも捉えてしまいかねないこの文章はどうかなあと感じました。

他の箇所も取り上げると、自然の浄土という文言があります。

本願寺派の中では自然の浄土という言葉が当たり前のフレーズ、重要な言葉であるならば申し訳ないですが、私はなんで自然の浄土というこんな難しい表現をつかっているのかわかりません。

ご門徒さんから自然の浄土を説明してくれと言われても困ります。

それこそ仏教をまったく知らない人がこの字面だけをみると、間違いなく「しぜんの浄土」と読むと思います。

もっと簡単に、あみだ仏のお浄土と表現してもよかったのではなかったのかなあと思います。

他にも愚かな身と書いて、「ぐしん」と読まず「み」と読ましたり、仏恩報謝とか、ぶっとんって何?と初めての人は分からないと思います。

一般の人びとにもわかりやすく平易な、現代版の領解文と言いながら、私は読んでも分かりにくいなあ、難しい表現を使っているなあと率直な感想として持ちました。

これまで浄土真宗の教え、南無阿弥陀仏のお名号、阿弥陀仏の智慧慈悲のはたらきに一切出あってきていなかった人たちが、この新しい領解文を見たり聞いたりしても理解できないのではないかなあと思います。

本当にわかりやすく平易に伝えたかったら、もっと文章量を増やして教えを説いてもよかったのではないでしょうか。

言葉足らずが過ぎる気がします。

他にも首を傾げるところはたくさんあります。

新聞の内容によると、この新しい領解文の元になった2021年の文言に、歴代宗主への感謝の言葉が足りないから、「法灯を伝承された歴代宗主の尊いお導きによるものです」の一文を加えたとあります。

この新しい領解文は本願寺の今のご門主様が出したものですから、ご門主様のお領解の内容ですよね。

お領解を出した人が、自分自身を含めて、尊い導きによるものだから感謝しなさいよというのはいささか表現がすぎるような気もします。

古くからのお領解文の「次第相承の善知識のあさからざるご勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。」の部分を新しく表現しなおしたのだと思いますが、善知識とは仏菩薩だけでなく、この私を仏道に導いてくれるご縁となるものあらゆるものが善知識となります。

善知識は一般的には教えを授ける師匠、高僧を指しますが、一緒にお寺にお参りする友達といったようにもっと身近な存在の人も善知識になると思います。

もっといえば、人でなくても、善知識と言えるでしょう。

善知識はもっともっと広い言葉だと思います。

決して浄土真宗のみ教え、南無阿弥陀仏は、歴代宗主だけの導きによって伝わったのではないと思います。

新しい領解文は言葉が足りないと思います。

以上で、新しい領解文について、簡単な私からの感想は終わります。

2023年1月16日に浄土真宗の本願寺派から新しく発布された領解文について、新聞を通じて出会ったわけですが、古典的な表現だと人びとの理解を阻むとしながら、はたして本当に現代の人に向けて、これから浄土真宗の教えにであっていく人に向けて、わかやすく平易に伝わるかたちにして出されたものかなあと感じました。

けっしてご尊派本願寺派さんを批判したいわけでなく、この新しい領解文をみて、私は分かりにくい、理解しにくい、首をかしげるという印象をもったというわけです。

それこそこの分かりやすさに重きを置いたこの新しい領解文が実は分かりにくい文章で、分厚い解説本が必要となるのであれば、従来からの親しみのある読み慣れた聞きなれた領解文を大切に伝えていけばいいのではないかなあと思いました。

もっと先の懸念を言えば、私はこの音声ラジオで仏教経典をなぜ現代語訳しないのかについて取りあげた内容と被ることですが、時代にあった言葉や表現を用いて文章を新しく書き換えていくと、しだいに言葉の伝言ゲームのように元々の伝えたかったことと徐々にズレていくのではないかなあと思っています。

今回の新しい領解文でも、2021年の下地の文章に、「歴代宗主の尊いお導きによるもの」といったように新しく文章が足されています。

今後100年後200年後500年後といった未来に、また新しい領解文を作るといった事があるたびに、言葉を足したり削ったり、新しい表現を使っていくと、時代に応じて分かりやすくして伝わりやすくしたつもりが、かえってだんだん浄土真宗の教えが理解しにくいものになるのではないのかなあと心配になります。

古いものでもお手本のようなすばらしいお領解文がすでにあるのだから、これからの時代も、また新しく作るのではなく、これを元にして教えが正しく伝わるように展開していけばいいのではないかなあと思いました。

「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。



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