鬼籍・お天道様.ラジオ#191

第191回目のラジオ配信。「戒め・律する」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

ラジオテーマ内容まとめ
  • 戒めが薄れてきているように感じる
  • 自分を律することができない人が増えていないか
  • 周りの迷惑よりも自分の損得で行動する人がいる
  • お天道様が見ているという戒めの言葉ある
  • 地獄や閻魔様、鬼籍の言葉も最近ではどこ吹く風か
  • 周りからの戒め、忠告の言葉をしっかりと受け取めることがまず大事

かっけいの円龍寺ラジオ

これは香川県丸亀市にいる浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをするラジオです。

今年もいろんな事件を耳にしますね。

スシローやはま寿司といった回転寿司店で、他の人が注文した寿司を横取りしたり、醤油さしをなめるといった事件がありましたよね。

他にも民家に入って人を殺し金品を盗んだり、白昼堂々と宝石店・時計店に押し入り盗みをする事件も報じられています。

10代や20代30代といった若い世代の犯行として、注目されているようです。

それで今から3ヶ月以上前のことですが、若い世代の回転ずしや強盗の事件をどう思いますか?というお便りを頂きました。

今回はそのどう思いますかという質問から、私が思ったことを話していきます。

さて、おそらく昔も想像もできないような迷惑行為があったのでしょうが、SNSが広く普及したからか、よりいろんな迷惑行為・犯罪行為がぐっと急速に広まるようになったんだと思います。

なので別に今になって急に若い世代の人たちが、荒れた行動・おかしな行動、人に迷惑掛ける行動をとるようになってきたわけではないのかなあと思います。

それはさておき、私が思ったのは、「お天道様が見ている」という言葉のように、自分自身を戒めるといったことが、最近では軽んじられているのではないかなあとも思います。

昔の人はよく言いませんでしたか?

悪いことはしちゃ駄目よ、お天道様が見ているよと。

誰も見ている人がいない監視の目がなかったりすると、ゴミをポイ捨てしたり、盗みをしたりと誰かが困ること、悲しむこと、迷惑な行為をしたりする人がいます。

そういう人は自分を律することができない人になります。

誰にも見られていないちょっとした行動であっても、それが誰かほかの人を困らせたり悲しませたり、迷惑をかけたりしないようにと、昔の人は、お天道様はいつも見ているよと教えて、正しく行動するようにと、自分を律していくことを促していたわけですね。

ただしそうは言っても、人は自分のことを厳しく律していくのは難しいもんです。

ちょっとでも楽しようとしますし、周りの迷惑よりも自分の損得で行動しようとします。

仏教でも同じようなことがあります。

修行するお坊さんが山に籠ったり、お寺でルールがある環境に身を置くと、品行方正なしっかりした振る舞いができるのに、山から降りたり、集団から離れると、自分勝手な行動をして自分を上手く律することができなくなることがあります。

何々してはいけないよといった戒めの環境があれば、人は自分を律することができたりするんですが、そんな戒めがなかったり、戒めの言葉を教えられてこなかった人は、自分勝手な行動をとったりもします。

昔はご家庭の年長者、お爺さんやお婆さん、地域の人、学校の先生などから、さまざまな戒めを教えられてきましたが、今では核家族もすすんだり、注意する人がいなくなったりと、戒めを受けた人、特に若い世代の方は増えたんではないかと想像します。

戒めが薄れた結果、他への迷惑を気にしないといった自分勝手な自分を律することができない事件が現れるようになったんではないのかなあとも少なからず思います。

似たような話が仏教にもあります。

「悪いことをすると地獄に落ちるよ」とか、「嘘をつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれるよ」とかが戒めの言葉ですね。

生前悪いことをした人は、亡くなった後に、苦しい思いをするよという事を教えて、正しい行動をしなさいよと戒めているのが、「悪いことをすると地獄に落ちるよ」とか、「嘘をつくと閻魔様に舌を引っこ抜かれるよ」といった言葉なんですね。

でも最近の若い子たちは、地獄ってになに?閻魔様って誰?とどこ吹く風な感じです。

全然戒めになっていなかったりするんですね。

でも生きている人が死んでいく以上、これまで日本人は、死後地獄に落ちないようにと、また仏教徒であれば、仏様の世界お浄土に生まれ往くようにと願って、戒めのことばを受け止めて、自分を律していたわけです。

ところで皆さんは「鬼籍にいる」という言葉をご存知でしょうか?

ひょっとしたら最近は鬼籍にいるの言葉を教えられてきていないかもしれませんね。

鬼籍というのは、地獄の裁判官が持っている帳面のことです。

人は亡くなると、色んな裁判を経て、行き先が決まるらしいですが、その時に地獄の裁判官が持っているのが鬼籍で、これから裁判される人の生前の記録、いつ亡くなったとか、どんなことをしてきたのか、良いこと悪いこと、いろんなことが記されているんですね。

裁判官たちは鬼籍の帳面が無くても、色んな道具を使ってその人の罪の深さをはかるんですが、補助としてその鬼籍の記録も使うんですね。

なので、生きている人たちは、たとえ誰からの目が無くても、誰から見られていなくても、お天道様が見ているように、悪いことはしない、人の悲しむことはしない、困ることはしない、迷惑なことはしないと、自分を律してきたというわけです。

今の時代は、戒めも無ければ、律する心も薄れてきたのだと思います。

そういったことが少なからず、今の時代の、とくに若い世代の迷惑な行動、犯罪行動につながっているんじゃないのかなあと思います。

ちなみに話の余談として、地獄の裁判官として閻魔様が一番有名な裁判官として知られていますよね。

亡くなった後にはいろんな裁判官がいて、地獄だけでなく、餓鬼道や畜生道、修羅人間、天にも行く可能性がありますが、閻魔様に裁かれるという状況は、地獄におとされることがほぼ確定で、あとはどのレベルの地獄に行くかという絶望的な状況です。

裁かれる人は、少しでもましな地獄に行こうとするのですが、鬼籍に生前の行いが全て書かれていますし、閻魔様には生前の良いこと悪い行いをすべて映し出す鏡が用意されています。

なので閻魔様の前では嘘をついてダマす事が不可能ですし、なおもって嘘をつこうものなら、舌をその場で引っこ抜かれてしまいます。

人は誰しも、良いことばかりで、生きていくことはできません。誰かを傷つけることもありますし、嘘をつくこともあるでしょう。

それでも鬼籍にいるやお天道様が見ているのように、いろんな戒めの言葉を受けることで、良いことを進んでできず、悪いことをついついやりがちであっても、ふと立ち止まって、自分の行動が正しくない行動に向かっているんじゃないのか、他を思いやる気持ちにつながっていくんじゃないのかなと思います。

そういったわけで頂いたご質問の、「若い世代の回転ずしや強盗の事件をどう思いますか?」というお便りについては、周りからの戒め、忠告の言葉をしっかりと受け取めることがまず大事で、自分の楽しいこと、損得だけでなく、その自分の行動が誰かほかの人の迷惑になっていないか、悪い方向に進んでいないのかと律していくことが重要なんだと思います。

またこう答えている私自分自身も、少しでも悪い方向に進んで行かないようにと、自分事として振り返る必要があるのだと思いました。

「鬼籍に入る」の言葉の使われ方

鬼籍(きせき)とは、亡くなった人の名前や亡くなった年月日などが記された地獄の裁判官の帳面のこと。

亡くなった人のことが記されているので、お坊さんや寺が持つ過去帳のことを鬼籍と表現することもあるようだ。ただし浄土真宗では、過去帳のことは鬼籍と表現しない。

「鬼籍に入る(いる)」とは、地獄の裁判官の帳面に記録されることから、人が亡くなったことを表現するさいに使われる。

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