この頃はお寺での法事が増えているように感じます。家での法事が減って、葬儀会館や檀那寺の場所を借りるんですね。
お寺や葬儀会館を借りたら、けっこう施主は楽なんですね。負担が減るんですね。お寺で法事をする時は、お寺の人に「この予算で法事の飾り付けお花やおロウソクや引き出物とかお茶菓子とかを用意しておいてください」と言うと、お寺の人はその予算で法事の準備をしてくれるでしょうで。そして施主は「お位牌と遺影を持ってきてください」と言われると思います。施主は、お位牌とお写真家をこの二つだけ持ってくれば法事ができるということです。
お坊さんの私は、お参りに行くと、お仏壇の横にあるお写真・遺影を見ます。あれを見ますと、この20年30年でだいぶんお写真・遺影が変わってきたように感じます。
つい30年前、25回忌の方の法事をしますと、写真がモノクロ、白と黒のモノクロの遺影がポツポツとあるんですけども、17回忌になりますと、皆さんカラーの遺影になってるんですね。
20年前と言いますと、平成10年ぐらいですか。平成になって葬儀業者が葬儀を全面的にサポート・代行するようになって、カラーの写真が本当に爆発的に増えたと思います。
今モノクロの遺影を見ることは、本当に稀になりました。でも30年ぐらい前、37回忌のお写真を見ますと、ちょうど昭和の終わるちょっと前でしょうか、その昭和の終わり頃の写真を見ますと、モノクロの中にポツポツと手書きの遺影というのも見受けられます。
法事に行くと、その手書きで書いた遺影が長押(なげし)から下げられて、お仏壇の横に飾られることがあって、「ああこの人はすごいなあ・ありがたいなあ」と感じます。
どうして手書きの遺影がすごいと思いますか?写真じゃないですよ。
手書きの遺影とは、その本人の顔形身体の形を分かるように、ゆっくりゆっくり丁寧に書いてるあの遺影です
手書きの遺影・遺影写真を葬儀に使うというのは、この100年ぐらいのことらしいですけども、その葬儀で使う写真・肖像画のことを「遺影」と言うようになったのは、私は最初に呼び始めたのは、お坊さんじゃないのかなあと勝手に想像しています。
遺影ってなかなか私深い言葉のような気がします。遺影という漢字は「影を残す」と読みますよね。遺影の「えい」は「影(かげ)」ですけど、この影(かげ)というのは、「その人の姿を、私たちに映し出す。」。その影を私たち残っている私達に見せてる姿ということで、遺影と名付けたのだと私は勝手に想像しています。
お寺では宗派を開いた宗祖のことを、「御(おん)」と「影(かげ)」という字で表現します。大きい仏教寺院に行きますと、御と影と堂という漢字のお堂があります。このお堂には大切な方のお姿ということで、絵や像のお姿がおまつりされています。私たちはそのお姿・影(かげ)を見て、仏法にますます出会っていき、仏法を伝えていくお気持ちをいただきます。
ちなみに大きいお寺では、御(おん)と影(かげ)の漢字のお堂がありますけども、これは宗派によって、微妙に読み方が「ごえいどう」であったり、「みえいどう」であったり、「みえどう」であったりと微妙に違うので、これはもうあらかじめ、知っておかないとちょっと読むことができません。
たとえば世界遺産の真言宗の総本山東寺では御影堂(みえいどう)と言います。一方で香川県にあります真言宗善通寺派の総本山善通寺さんは御影堂(みえどう)と言います。
他にも京都にある浄土宗の総本山知恩院は御影堂(みえいどう)と言いますし、西山派(せいざんは)の本山光明寺は御影堂(みえどう)と言います。浄土真宗でいいますと、西本願寺とそのお隣にある真宗興正派の本山興正寺では御影堂(ごえいどう)と言います。一方で東本願寺は御影堂(みえいどう)と言います。
読み方のちょっとした雑談でした。
話を戻しますと、法事やお葬式で使われるお写真というのは、手書き・モノクロの写真・そして今のカラー写真と、この100年、この20年30年の間でがらりと変わってきたような気がします。私の住んでるところでは、手書きの遺影を書く人は、もう20年前ぐらいが最後だったんじゃないのかなと私は聞いてます。もう書く人が今いないとのことです。
どちらかと言いますと、葬儀や法事に使う写真というのは、手書きの遺影の方がふさわしいと私は思います。最近のカラーのお写真を見ますと、その故人の亡くなった人の人柄がわかるように、笑顔であったりピースしたり手を振ったり、華やかな、後ろに桜の木が咲いてるような美しい花が咲いてるような美しい海・山の景色をバックにした、カラーの写真。
葬儀社の人は「何かスナップ写真ありませんか?スナップ写真を引き伸ばして作りますので、良いお写真を用意してください。」とご家族の方に言われると思います。
一方で手描きの遺影はどうでしょうか?
手書きの遺影のその顔を見ますと、私は鬼気迫る表情、訴えかけているような顔に私は感じます。手書きの遺影というのはすぐに書くことができないんですね。手書きの遺影をかける人に頼んで来てもらって。服を整えて椅子に腰掛けたりお座敷で正座をして、2時間ぐらいかけて書いてもらって、細かい手直しをして手書きの遺影というのができます。
手書きの遺影はお時間がかかるので、生前に書きます。手書きの遺影を書いてもらう人は、「おそらく来年もこの景色が見ることができないんだろうなー」と半年前や1年前に、自分の姿を残さないといけないだろうなと、覚悟を決めるんですね。
ですからその遺影の顔・姿というのは、覚悟を決めた顔という風に私は見えます。
亡くなる前の影(かげ)・姿(すがた)ですので、今の引き伸ばした加工したような、20年も30年も前の写真であったり、シワを伸ばしたり肌の色を明るくしたりとそんなお姿ではないんですね。
死にゆく姿をそのまま遺影にうつしています。
影を残す人もそれを書く人も、その遺影の一枚に、自分の今の気持ちを込めるんですね。
誰でも本当はずっとずっと生きたいと願うはずです。誰でも死ぬのは怖いんです。それは仏教に出あってたとしても、死んでいくというのは怖いんです。でもどこかで死ぬということを受け入れて覚悟を決めないといけない時がやってきます。
仏教で大事なこと、法事お葬式で大事なことというのは、自分の死んでいく姿を、後の人に見せることです。
今の時代、お金をたくさん残したり、財産をたくさん残したら「あの人はしっかり就活してくれていいもの残してくれたなー」みたいな感じで言われるのかもしれません。しかしそんな物は、すぐに失いますし、悩みや揉め事のもとになります。
仏教での相という言葉は、仏法を引き継いでいくこと・亡き人たちの思いを引き継いでいくことを意味します。
「自分が死んだら好きなように葬儀をしてくれたらいい」って言ってくれる人もいるかもしれないですけども、それを冷徹な言い方をしますと、「泣いて悲しんでくれる人がいない葬儀」ということではないでしょうか。
葬儀というのは笑って送るのではなくて、本当に大切な人との悲しい別れ、今生きてるこの世でもう会うことができないんだという涙をもって送るのが葬儀ではないでしょうか。
そしてまた、死んだ方は、今の写真は笑っていますけども、本当は亡くなる方だって、元気で健康でお金をずっと持って何十年も何百年もずっとずっと生きたかったはずです。別れたくはなかったはずです。でもどこかで別れないといけない。その悲しい別れ・辛い別れ・苦しい別れを悟った顔がその手書きの遺影なんです。
仏教というのは生きてる私達が、亡くなった人に対して、いいとこ行ってくれよといろんなことをしてあげるだけの教えじゃないですよね。むしろ亡くなられた人を敬い仰いで偲んで、生きるご縁・死ぬご縁というのに気が付いていかなければなりません。亡くなった方が「覚悟を決めろよ」「次はお前の番だぞ」「あなたも死ぬんだぞ。他人事と思うなよ」と訴え、病になり老いていき死んでいく姿を見せていってるのが手描きの遺影。
ですから、最近ではカラーの写真になって、非常に明るい顔にして、笑って送る葬儀というふうになってますけども、本当は亡くなった人の姿を見て、いのちのご縁・いのちの尊さを真剣に見つめないといけないのです。それが仏教の相続です。
私たちは知識や経験として、なんとなしに生き物というのはやがては死ぬんだ。死ぬということはわかってるんですけども、それを本当に本当に心の奥底から私自身のこととして、覚悟しているでしょうか。
死を覚悟した手描きの遺影というのは、ただの写真ではないんですね。その覚悟を決めた姿というのは私たちに向けて、私たちに対して、「次はあなたの番かもしれないぞ。生きるというのはやがて必ず死ぬんだぞ」ということを強い眼差しで、語りかけてくれてるんだと思います。
もちろんカラーの写真もそれはそれでよろしいんですけども、手書きの遺影を見ますとありがたいなあと私は感じます。この厳しい眼差しをもって、今日お参りのご縁にあう私たちすべての人に向けて、いのちを伝えてくれてるんだな感じます。
遺影にはその人らしさを残すのも大切なのかもしれません。しかし手書きの写真・手書きの遺影というのは、死ということ・死んでいく姿を私たちに伝えているのだと思います。老いた姿・しわの多い姿・悲壮な姿を見せること・見ることは、辛いかもしれません。でもその生きること死ぬことの大切な姿をみていくことは、非常に大切なことです。
死と向き合うご縁を与えるのが、手書きの遺影だと思います。
元気な姿というのはアルバムに残して、法事やお食事の時に、皆さん開いて、「あの頃あんなことあったなあ。楽しかったなあ。叱られたなあ」と振り返れば、それはそれでよろしいのじゃないのかなと思います 。