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御正忌の章の拝読と現代語訳.番外13

浄土真宗では宗祖親鸞聖人のご命日のお勤め「御正忌報恩講」のとき、蓮如上人のお手紙を拝読します。

番外13では蓮如のお手紙(御文章・御勧章)の5帖目第11通から、「御正忌の章」を拝読します。

かっけい
かっけい

御正忌の章の拝読と現代語訳を録音しました

  • 録音日:2022年1月1日
  • 拝読者:釋克啓
  • 録音場所:円龍寺本堂
御正忌の章の拝読と現代語訳の音声
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御正忌の章の全文

そもそもこの御正忌のうちに参詣をいたし、
こころざしをはこび、
報恩謝徳をなさんとおもいて、
聖人の御まえにまいらんひとのなかにおいて、
信心の獲得せしめたるひともあるべし、
また不信心のともがらもあるべし。

もってのほかの大事なり。

そのゆえは、
信心の決定せずば今度の報土の往生は不定なり。

されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。

人間な不定のさかいなり、
極楽は常住の国なり。

されば不定の人間にあらんよりも、
常住の極楽をねがうべきものなり。

されば当流には信心のかたをもってさきとせられたる、
そのゆえをよくしらずば、
いたづらごとなり。

いそぎて安心決定して浄土の往生ねがうべきなり。

それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、
なんの分別もなく、
くちにただ称名ばかりをとなえたらば、
極楽に往生すべきようにおもえり。

それはおおきにおぼつかなき次第なり。

他力の信心をとるというも別のことにあらず。

南無阿弥陀仏の六の字のこころをよくしりたるをもって、
信心決定すとはいうなり。

そもそも信心の体というは、
経にいわく、
聞其名号信心歓喜といえり。

善導のいわく南無というは帰命、
またこれ発願回向の義なり、
阿弥陀仏というはすなわちその行といえり。

南無という二字のこころは、
もろもろの雑行をすてて、
うたがいなく一心一向に阿弥陀仏とたのみたてまつるこころなり。

さて阿弥陀仏という四の字のこころは、
一心に弥陀を帰命する衆生を、
ようもなくたすけたまえるいわれが、
すなわち阿弥陀仏の四の字のこころなり。

されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、
信心のとるとはいうなり。

これすなわち他力の信心のよくこころえたる念仏の行者とはもうすなり。
あなかしこ、あなかしこ。

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御正忌の章の現代語訳

現代語訳

さて浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご命日法要であるこの御正忌に、お参りいただきましてありがとうございます。志の気持ちを携えて、阿弥陀仏の教えを伝えてくださった親鸞聖人のご恩におこたえし、仏様のはたらきに感謝しようと、寺におまつりする親鸞聖人のお姿の前にお参りされている人たちの中には、信心をいただけている人もいるでしょう。一方で残念なことですが、仏様からの信心をまだいただけていない人たちもいることでしょう。

信心をいただけていないことは、何よりも一大事なことです。

それはどういうわけかと言いますと、仏様からの信心が正しく定まっていないと、仏様のお浄土に生まれ往くことができるかは、不確かなものだからです。

ですので信心のまだいただけていない人も、はやく正しい信心をいただかなければいけません

私たち人間の世界というのは、誰がいつどのように死ぬのか分からないといった、なにごとも変化のつづく定まりのない世界です。

一方で阿弥陀様の極楽浄土は、永遠に変わることのない仏の世界です。

ですので、様々な苦しみに迷い、何事にも不安定で確かなものがない人間の世界にいるよりも、阿弥陀仏のお浄土の世界に生まれ往くことを願うべきです。

さて浄土真宗はなによりも信心が最も大切なのですが、その理由を知らないのであれば、むなしく意味のないことです。

急いで信心をはっきりといただき、阿弥陀仏のお浄土に生まれ往くことを願いましょう。

ところで、この世間の人びとの間で一般的に広まっているお話に、なんのわきまえもなしにただ南無阿弥陀仏と口にすれば、それだけで極楽に行くことができるんだと勘違いされています。

これは大いに疑わしくいぶかしいお話です。

他力の信心をいただくことは、なにも特別ことではありませんよ。

南無阿弥陀仏の6つの文字のいわれ・理由をよく知ることを、「信心を決定している」。つまりは信心をいただけているというのです。

そもそも信心そのものについては、仏説無量寿経に「聞其名号信心歓喜」阿弥陀仏の名号をきいて、信心をえて心から喜ぶと書かれています。

また中国の古い時代の偉いお坊さんで、善導大師が書いた観経疏には「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり、阿弥陀仏というはすなわちその行」、南無というのは阿弥陀仏のはたらきにそのままお任せします。これは阿弥陀仏の私たちを必ず救うという仏様からの本当の願いと南無阿弥陀仏のお名号のことです。阿弥陀仏というのは仏様が私たちのために与えられた名号の行いそのものと説明されています。

南無という2つの文字の意味は、自分の器量・力を頼みとして、仏になるための様々な修行をするのではなくて、疑いなくただ一心にひたすらに阿弥陀仏にお任せするということです。

阿弥陀仏という4つの文字は、阿弥陀様が私たちのためにかけられた願いのはたらきに一心にひたすらにお任せするあらゆる人たちを、阿弥陀様は何の条件もつけずに、苦もなく助けてくださることを意味します。

そういうわけで、南無阿弥陀仏のお名号そのものをこのようにいただけることを、信心をいただくといいます。

そしてこのように正しく信心をいただけた人たちのことを、他力の信心をはっきりといただけた念仏の行者と申します。

それでは。それでは。

釋克啓が訳す

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