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親鸞の生涯.ラジオ#112

第112回目のラジオ配信。「親鸞(しんらん)」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

親鸞の生涯[概要]
  • 1173
    誕生

    京都の日野の里で生まれる。父は日野有範とされる

  • 1181
    9歳
    出家得度

    京都の青蓮院にてお坊さんになる

  • 1201
    29歳
    法然を師とする

    比叡山をおりた親鸞は、聖徳太子・観音菩薩の勧めによって法然とであう

  • 1207
    35歳
    流罪

    念仏禁止により、親鸞は越後に流罪となる

  • 1211
    40歳
    赦免

    流罪がゆるされた親鸞は関東に向かった

  • 1224
    52歳
    教行信証の執筆

    関東での布教のかたわら、阿弥陀仏の本願念仏の教えを体系的にまとめた教行信証を書く

  • 1235
    63歳
    帰洛

    東海道を通り、京都に戻る

  • 1262
    90歳
    亡くなる

    11月28日に京都の弟の坊舎にて亡くなる。鳥辺野で火葬し、大谷に埋葬

かっけいの円龍寺ラジオ

この番組では香川県に住む浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをするラジオです。

11月は浄土真宗では報恩講があります。

このラジオを配信する11月23日はまさに報恩講のまっただ中で、浄土真宗の各宗派本山では、報恩講法要がおよそ一週間にわたって行われていることでしょう。

報恩講とは、浄土真宗の宗祖、親鸞というお坊さんのご命日のお勤めのことです。

浄土真宗では、一年は報恩講に始まり、報恩講に終わるとされるほど、最も大切な期間です。

親鸞さんの来歴を私が言うのも憚ることですが、今回は「親鸞さんの生涯」について簡単に10分をめどにお話していきます。

さてその前に注意点をお話します。親鸞というお坊さんは、各地を歩き、また多くの書物を残したのですが、ご自身について語ることはほとんどありませんでした。

そのため親鸞の生涯は、奥さんの恵信尼の手紙や、後の人が親鸞さんはこんな人だったんですよと書き残されたものが元になっています。

例えば、親鸞の曾孫の本願寺3代目覚如が、親鸞が亡くなってからおよそ30年後に書いた『御伝鈔』。

およそ200年後に書かれた本願寺8代目蓮如の『御俗姓』、やその子どもが書いた『日野一流系図』などがあります。

親鸞の生涯は不明確なものであり、その来歴は浄土真宗各宗派の成り立ちにも関係します。

今回は、本願寺や真宗教団連合が紹介したりと、一般的な歴史認識とされている内容で、親鸞の生涯についてお話します。

それと親鸞のお名前は、生涯に何度か変わりますが、ここでは親鸞で統一します。

さてまずは生まれからお話します。

親鸞は平安時代の終わりごろ、1173年に生まれました。ちなみに誕生日は4月1日とされています。4月1日というのは、江戸時代になって真宗高田派のお坊さんが書いたものなので、信憑性はありませんが、とりあえず4月1日が誕生日となっています。

4月1日が誕生日とされることもあって、浄土真宗のお寺が春にする法要では、4月1日の親鸞の誕生日、4月8日のお釈迦様の誕生日を合わせていることもあります。

親鸞の父は平安時代に権力を手にした藤原家に関係する一族の流れをくむ、日野家・貴族だったと伝わります。

生まれた場所は、日野家の領地であった、日野の里の法界寺という所です。

日野の里は、京都の中心よりだいぶ南東方向にある京都府伏見にあって、藤原道長の別荘だった宇治の平等院から北に6キロメートルくらいの所にあります。

親鸞は9歳の頃に、叔父に連れられて、出家得度します。つまりお坊さんの仲間。小僧になりました。

出家した場所は、京都の青蓮院、青い蓮の院とかくお寺で、京都東山の浄土宗本山知恩院の北に位置します。

この天台宗の青蓮院で、親鸞はお坊さんの仲間入りして、天台宗の本山である比叡山延暦寺にて修行するようになります。

ちなみに青蓮院に来たのが遅く、出家得度の儀式をあしたにしようと言われた時に、9歳の親鸞が「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」とうたったことは有名なエピソードですが、これは曾孫の覚如が書いた御伝鈔エピソードですので、信じる信じないかはひとそれぞれです。

さて比叡山延暦寺にのぼった親鸞は様々な修行をしたとされます。学問も自力も修めます。もちろん念仏もしました。

さいごには、「不断念仏」という阿弥陀仏を見るための修行をします。

しかし悟りに至る道、またあらゆる人びとが救われる教えを見出すことができなかった親鸞は29歳のときに比叡山をおりました。

そして京都の頂法寺の六角堂に籠ります。頂法寺の六角堂は聖徳太子が建てたと伝わるお寺で、京都市役所と二条城の間くらいにあります。

このお堂で、聖徳太子・観音菩薩のすすめによって、ちょうど京都の東山吉水で、阿弥陀仏の本願念仏の教えを説いていた法然のもとに向かうことになります。

法然は専修念仏をすすめる浄土宗の宗祖です。

法然のもとで親鸞は、だれもが平等に救われる阿弥陀仏の本願念仏の教えにであい、法然を師と仰ぎ、他力の念仏者となりました。

法然のもとで本願念仏・専修念仏の教えをふかく理解し、法然が書かれた『選択本願念仏集』を書き写すことが許されます。

本願念仏の教えは、老いも若きも、男も女も、貧富の差、身分の違いも問わず、だれもが救われる教えでした。

一方で、それまでの仏教集団からの反発は大きく、時の朝廷から流罪や死罪という処罰がだされます。

浄土宗の法然は土佐、高知県に流される予定で、親鸞は越後、新潟県に流されることになりました。法然とであって6年後、35歳のころです。

琵琶湖を北上し、福井・富山を抜け、途中、新潟県糸魚川で船に乗り海から越後の国府にたどり着きました。

親鸞は流罪の途中でも布教ができていたようです。

例えば福井県の鯖江市には「車の道場」という場所があります。この場所に、親鸞は車の付いた輿に乗ってきたとされます。

私の感想ですが、もしこれが本当なら、流罪でありながら、よい待遇を受けていたようにも思われるところです。

さて親鸞は流罪の新潟県、越後の国府で5年ほど過ごし、このころに恵信尼という女性と結婚し、子どもを授かったとされます。

本願寺蓮如の子が書いた『日野一流系図』によると、恵信尼の父は三善為教で、越後の豪族の娘であったとされます。

1211年11月17日、流罪から5年後に法然や親鸞は流罪の罪が許されます。

法然はまもなく京都に戻りますが、親鸞は関東に向かいます。

主な歴史では、親鸞は京都に戻らず、関東に直接向かったとされますが、関東に向かった足取りは不明です。恵信尼の手紙から、3年後の1214年に群馬県の佐貫 にいたことは分かっています。

ちなみにまた余分な私の感想ですが、私は親鸞は京都に戻ったと思います。

私なら、流罪の前にいたふるさとの京都へ戻ります。現に法然も高齢でしたが、流罪の場所から京都に戻ってますよね。

仮に法然が京都で亡くなったことを知ったあとでも、法然のお参りにいくでしょうし、流罪を許した朝廷やスポンサーだった貴族九条兼実にもお礼するでしょう。

また流罪の途中で布教し、また会いたいと願う人々の元にも訪ね行くのではないでしょうか。

また生まれたばかりの小さな子供、奥さんと一緒に新潟から山梨と、険しい山道を通るでしょうか?

私なら一度来た道を戻り、京都から東海道を通って関東に入りますけどね。

関東は鎌倉幕府がはじまり、賑わい発展し始めていたことや、法然のお弟子さんたちがいたことなどなど、本願念仏の教えを広める新天地であったから、親鸞は関東に向かったのでしょう。

親鸞は関東で本願念仏の教えを広め、また阿弥陀仏の念仏の教えを体系的にまとめた『顕浄土真実教行証文類』いわゆる『教行信証』を書きはじめます。

1224年、茨城県稲田に草庵を結び、教行信証をほぼ完成させたとされます。真宗浄興寺派によると、教行信証完成の喜びから稲田草庵を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺と名づけたとも伝わります。

1235年頃、親鸞63歳の頃に、およそ20年間の関東での布教をへて、奥さんや子どもたちと東海道を通って、京都に戻ります。

その後、子どもの善鸞と覚信尼は京都に残り、奥さんの恵信尼とその他の子供はふるさとの越後の国に帰ります。

京都に戻った親鸞は教行信証をはじめ、多くの書き物を執筆します。また善鸞を自身の代わりに、北陸や関東に遣わしたり、善鸞との親子の縁を切った義絶もあったそうです。

私は、善鸞を義絶したのは本当かなあと疑問に思うところですが、主な歴史では、親鸞は84歳のころに関東に送った善鸞を義絶しています。

1262年、90歳を迎えた親鸞は、弟の坊舎に身を寄せます。京都市役所のちかくにあったとされます。

旧暦11月28日の昼過ぎ、新暦だと1月16日に亡くなりました。

親鸞の遺体は鴨川に流して、魚の餌にするようにとの話もありますが、これは親鸞が亡くなっておよそ70年後の改邪鈔という書物に書かれた言葉です。

歴史的には、翌日の11月29日に京都の東山の鳥辺野に運ばれ火葬され、30日にお骨が拾われます。

京都には3つ有名な葬送の場所があって、風葬の化野、火葬の蓮台野、鳥葬の鳥辺野があります。

親鸞は鳥辺野にて火葬されますが、この地は藤原道長など、藤原氏の火葬の場所でもあったので、藤原氏の流れともされる親鸞はこの地で火葬されたのかなあとも思うところです。

親鸞の遺骨は、鳥辺野の北にある東山の大谷に納められます。この東山は親鸞が出家得度した場所、法然と出会った場所、師の法然のご遺体がまつられていた場所でした。ちなみに師の法然上人は土葬です。

親鸞が亡くなって10年後、娘の覚信尼たちは、親鸞の骨を取り出し、大谷の西、吉水の北にお堂を建立し、廟堂として親鸞聖人の遺骨を丁重にまつるようになります。

これ以降、娘の覚信尼が親鸞の廟堂を守る留守職の役になり、現在の本願寺につながっていきます。

明治9年の祥月命日、1876年11月28日に、ときの天皇から、親鸞は見真大師の名前がおくられました。

以上で、浄土真宗の宗祖親鸞の来歴を簡単に紹介しました。

10分をめどにする予定でしたが、少し長話になってしまいました。長くなったついでに、最後に要点だけ振り返ってお話を終えます。

  • 親鸞は平安時代の末、1173年に京都で生まれた
  • 9歳でお坊さんになる
  • 29歳まで比叡山にて修行する
  • 比叡山を降り、浄土宗法然とであう
  • 35歳で越後、新潟県に流罪する
  • 40歳の頃、罪がゆるされ、関東に向かう
  • 52歳の頃、浄土真宗の教えをまとめた教行信証をほぼ完成させる
  • 63歳の頃、関東から京都に戻る
  • 1262年、90歳で京都で亡くなった

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