睡眠章の拝読と現代語訳.番外21

円龍寺ラジオのエピソード番外21。

500年以上昔、本願寺八代の蓮如上人は多くのお手紙を書き、浄土真宗の教えを広めました。そのお手紙は御文や御文章といわれます。私の宗派では「ご勧章」といいます。

番外21では、1帖目第6通から睡眠章(すいめん)を拝読します。

かっけい
かっけい

睡眠章の拝読と現代語訳を録音しました

  • 録音日:2024年4月28日
  • 拝読者:釋克啓
  • 録音場所:円龍寺本堂
広告 - Sponsored Links

広告 - Sponsored Links

睡眠章の全文

そもそも当年の夏のこのごろは、
なにとやらん、
ことのほか睡眠におかされてねむたく候うは、
いかんと案じ候へば、
不審もなく往生の死期もちかづくかとおぼえ候う。

まことにもってあぢきなく、
名残おしくこそ候へ。

さりながら、
今日までも、
往生の期もいまやきたらんと、
油断なくそのかまへは候う。

それにつけても、
この在所において、
以後までも信心決定するひとの退転なきようにもそうらえかしと、
念願のみ昼夜不断におもうばかりなり。

この分にては、
往生つかまつり候うとも、
いまは子細なく候うべきに、
それにつけても面々の心中も、
ことのほか油断どもにてこそはそうらへ。

命のあらんかぎりは、
われらはいまのごとくにてあるべく候う。

よろずにつけて、
みなみなの心中こそ不足に存じそうらへ。

明日もしらぬいのちにてこそ候うに、
なにごとをもうすもいのちおわりそうらわば、
いたずらごとにてあるべく候う。

いのちのうちに、
不審もとくとく、
はれられそうらわでは、
さだめて後悔のみにてそうらわんずるぞ。

御こころえあるべく候う。
あなかしこ、あなかしこ。

この障子のそなたの人々のかたへまいらせ候う。
のちの年にとりいだして御覧候え。
文明五年卯月二十五日書之

広告 - Sponsored Links

現代語訳

現代語訳

さて、今年の夏、このごろはどういうわけか眠気におそわれるようになりました。眠たいのはどうしてだろうかと考えてみますと、おそらくこの世にお別れして、阿弥陀如来のお浄土に往生するときが近づいたからかと思います。

本当にどうしようもなく、なごり惜しく感じます。

しかし、私は今にいたるまで往生のタイミングがいつ来てもいいように、油断せず心構えをしてきました。

この福井の吉崎の場所では、私がいなくなった後も、阿弥陀様からの信心が定まった人びとが途絶えないことを、昼も夜もたえず思い願うばかりです。

私自身は私がいつ阿弥陀様のお浄土に往くことになったとしても、さしさわりはないことです。しかし、吉崎の皆さん方には思いのほか油断があるように思います。

私たちは、命がある限りいつ往生のときがきてもいいように生きましょう。

なにかにつけて皆さんにはその心構えが普段から十分にできていないように私は思います。

私たちは明日があるかも分からないはかない命です。何を言うにしても、いのちが終わってからではただむなしいことです。

いのちのあるうちに 疑いのあること・疑問に思うことを早く明らかにしないと、必ず後悔してしまいますよ。

どうぞしっかり心得てくださいませ。

それでは、それでは。

このお手紙は障子の向こうにいる皆さま方に向けて書きました。

どうぞ後の世にご覧になってください。

1473年4月25日に書きました。

釋克啓が訳す

ちなみに蓮如上人は、このお手紙を書いてから26年後に亡くなりました。

1499年京都の山科(やましな)で、85歳で亡くなりました。

「円龍寺かっけいラジオ」では、番組へのメッセージを募集しています。ご感想や取りあげてほしいテーマなどもお寄せ下さい。



    メール内容は暗号化され、安全に送信されます。

    タイトルとURLをコピーしました