お経はなぜ現代語訳しないの.ラジオ#161

第161回目のラジオ配信。「お経の訳」がテーマです。(BGM:音楽素材MusMus)

ラジオテーマ「お経」内容まとめ
  • 私はお経の現代語訳に消極的
  • お経は2500年前のお釈迦様の説法の記録
  • お釈迦様が亡くなった後に、インドの言葉でお経が書かれた
  • 1500年ほど前に、中国で国家事業で訳される
  • 仏教では大切な拠りどころ
  • お経の言葉は「論註釈」で仏の教えが導かれている
  • お経は訳されるたびに、元の言葉と離れていく可能性がある
  • 仏の教え・言葉を正しく受け伝えていくのであれば、訳すのは一回で十分ではないか
  • 浄土真宗では仏事に参って仏さまの話を聞く姿勢が、特に大事
  • 仏さまのお話を聞いて、仏教にであっていくことが大事
  • お経を知識として読むのではなく、仏さまからの説法、願いとして聞いていく

かっけいの円龍寺ラジオ

この番組では香川の浄土真宗のお坊さん、私かっけいが、短いおしゃべりをするラジオです。

2022年11月8日配信の今回は、お経はなぜ現代語訳にして読まないのかについて短くお話していきます。

新型コロナが流行してそろそろ4年目となりますね。

法事にしても徐々にお参りの人が戻ってきて、30人くらいのお参りのある法事や50人を超えるお葬式も出てきました。

すると、お参りの人からいろんなことを質問されるようになってきました。

この前は、お経は何を読んでいるのか意味が分からないね。と言われました。

確かにお経は全部漢字で書かれていて、それをそのまま、そのお経が訳された当時の中国の唐の音や宋の音で、日本のお坊さんは読んでいます。

ですので、現代の日本人の私たちがお経の音を聞いてもまったく意味はわからないですし、中国人の人たちからしても何を読んでいるのかまったくわかりません。

それでこんな質問をたまに受けます。

「どうしてお経は現代語訳、日本語訳にして読まないのですか」

これはすごく最もな意見に思えるのですが、私自身はお経の現代語訳には慎重な考えです。

そもそもお経とは何なのかについて、少し説明します。

お経は簡単に言うと、仏教開祖のお釈迦様のお説法の記録です。

そのお経はお釈迦様自身が書き残したものではありません。お釈迦様が生きているときは、お弟子さんたちが口にとなえることによって、仏の教えをいただいていました。

しかしお釈迦様が亡くなると、すぐに弟子たちの中から、お釈迦様が言っていたことと違うことを言い始める人たちがでてきます。

そこで阿羅漢以上のお坊さんたちは集まり、口伝えにして記憶していたお釈迦様の説法を文字に記録します。これがお経のはじまりです。

お経文の冒頭が「我聞如是」であるのは、私はこのように聞いたという、お釈迦様のお話したことを書き記したことを表しています。

このお釈迦様が亡くなった後に書かれたお経は、当時のインドの文字です。

その後、お経文は中国にわたり、現在私たちが知る漢字で訳されることになります。このお経の翻訳は、国家プロジェクトに相当するもので、誰でも好きなように訳せるのではなくて、国の王さま、皇帝から、あなたはこのお経を訳しなさいという依頼を受けて訳したものです。

お経文には、いつ頃、どの国、誰が訳したという事がお経のタイトルの後に記されるんですね。

これが現在、私たち日本人が読んでいるお経です。

今から1500年ほど前に中国で漢字に訳されたものです。

それで、今日のお話のテーマ、なぜ現代語訳・日本語訳にしないかということですが、私の意見としては、訳というのは、必要最低限にとどめるのがいいと思います。

仏教には、「論註釈」という言葉があります。

仏教の教えは、お経文に書かれています。

最初は2500年ほど前に、当時のインドの言葉で書かれ、それが1500年ほど前に中国の言葉で訳されました。

お経に書かれている内容は、理解しにくいところがあります。

その仏教の教えは、のちの時代の菩薩や偉いお坊さん達によって、仏さまのおっしゃっているのは、こういうことなんですよと教えを導けるように論じられるようになります。いわゆる論文ですね。

しかし論文のまま、論ではまだまだ普通のお坊さん達にとっては理解できないこともたくさんあります。

そこで後世の偉いお坊さん達は、さらに諭註というのを書き記します。

諭の難しい所、要となるところに説明を加えていったのです。

菩薩や偉いお坊さんが書き残された諭と註を元にして、後世のお坊さん達は、仏さまの教えを学んできました。

そしてさらに釈といって、お坊さん以外の人にもより砕けた表現・時代に応じた表現で、お経の言葉や、仏さまの教え、諭や註の内容を、多くの人たちに法話といった形で伝えていっています。

仏教では仏さまの言葉を書き記したお経が、なによりも大切な拠りどころです。

そしてそのお経を元に、諭や註によって、教えが導かれ、お坊さんは現在も多くの人たちに釈、お話をしていってます。

お経は諭註釈の流れで、現在のこの私たちの元に伝わっているんですね。

それで話は戻って、お経を現代語訳、今現在の日本語に訳したらいいじゃないと思う人たちもそれなりにいるわけです。

しかし例えばですが、伝言ゲームというものがありますよね。正しく情報を相手に伝えようとしても、人を介していくたびに、元の内容からは大きく外れていくことを楽しむゲームです。

言語の機械翻訳でも似たようなことがありますよね。

例えば、グーグル翻訳機で、「私はお経の翻訳をしました」と日本語から英語に変換したとします。それを英語から日本語、日本語から英語、日本語にすると、「聖書を翻訳しました」という訳になります。

たった3回クリックしただけで、元の言葉とはだいぶ離れた感じになりますよね。

これが複雑な言葉になると、さらに元の言葉とは、違ってきます。

お経を訳すということは、そういった事態を引き起こす可能性があります。

人によって、場所によって、時代によって、これが一番の・ベストな現代語訳だと信じて訳すのはそう難しいことではないでしょう。しかし訳されていくたびに、訳していく人が増えるたびに、元の仏さまの言葉の経典とはどんどん離れていく可能性があることに注意する必要があります。

だから私はお経の現代語訳には消極的な立場です。

お経は現代語訳しなくても、これまでに菩薩や偉いお坊さん達が諭註釈の形で、仏さまの教えのかなめのところを伝えてくださっていますし、またそれを元に、現代のお坊さんは、仏さまの教えを人びとに話し伝えています。

またお経も1500年ほど前に、国家の一大事業として、当時の偉いお坊さん達が漢字に訳してくれました。

そしてその訳されたお経を仏さまの大切な言葉として、これまで読経し、学び、仏の教えをいただいてきました。

仏の教え・言葉を正しく受け伝えていくのであれば、お経を訳すのはこの一回で十分なのではないでしょうか。

お釈迦様が亡くなってから、2000年ほどの間、いろんな方達の積み重ねによって、受け継がれてきた仏の教えを、また改めて、一から積み上げていくのは、少々おかしくないでしょうか。

どうでしょうか。

お経は確かに、聞いても何を読んでいるのか、分かりません。お経を聞くだけでは意味はわかりません。

そこでお坊さんは、皆さんに代わって、お経文の言葉を勉強し、論註釈を学びます。

そして、お坊さんは、これまでの積み重ねられてきたものを受け継ぎ、人びとに対して、仏さまの教えはこういうことなんですよとわかりやすくお話しようとします。

なので、お経がわけわからないというのではなく、お経にはどんなことが書かれているのか、仏さまの教えはどういったことなのかということを、お寺に参ったり、法事といった場で、お坊さんの話を聞いて、耳にしていってほしいなあと思うわけです。

ところで、そもそもの疑問なのですが、皆様は何のためにお経の意味を知りたいのでしょうか。

お経に書かれてある言葉を知ったら、悟りを開けるとか、そんなイメージでしょうか。

あるいは、品行方正になるとか、周りの人に対して優しくなるとか、親孝行になるとか、でしょうか。

そんなわけはないですよね。

お経の現代語訳がないと言いながら、現代では、例えばインターネットや本や動画で、お経の解説や現代語訳されたものが多く出回っていますよね。

それを読み聞きした人みんなが素晴らしい人になっているかと言ったら、まったくそんなわけではないですよね。

パッと見て意味が分かる言葉、解説された言葉をみると、人は理解した気分になります。

自分の中にハッキリとスッと仏さまの教えが身に染みたわけではないのに、分かったつもりになるのが質の悪いところです。

浄土真宗ではお聴聞、仏事に参って仏さまの話を聞く姿勢というのが、特に大事とされます。

私たちは、珍しい話を聞きたい、変わった話を聞きたい、と一度見聞きした言葉とは違ったものを見たくなります。

しかし仏さまの教えを聞くときは、そういうのはよろしくありません。

忘れてもいいから、何度でも仏さまの教えを聞いて、ああそうであったなあと、頭ではなく、自分自身の身に沁みついていかなければなりません。

本願寺の蓮如上人というお坊さんは、そのことを「ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。」と、

目新しいことばかりを聞きたい人たちに対して、仏さまの教えは何度と同じことを聞いても、はじめて聞く気持ちで耳にすることを仏法聴聞の上では大事なんだよと伝えています。

現代語訳・日本語訳されたお経文があったら、きっと皆さん、それに飛びつくと思います。

しかしそれで仏さまの教えが分かった気になるのは、私はどうかと思います。

訳された文章を見ても、何度も聞いていると、「それは知っている」とか、「他の話をして」とか、また新しい別の何かを求めたりしてしまいます。

お経は何を言っているのか分からないから、有難いとか、尊いとかではないです。

お経は仏さまからの説法だから有難く尊いのです。

そしてお坊さんの話を聞いて、仏さまの教えについて触れていくのが、法事・法要といった場です。

分かった気になって、知った気になって、仏さまの教えを聞くのは、非常に危ういです。

お経の現代語訳を望む人は多いかもしれませんが、現代語訳を見聞きするくらいなら、一つでも多く法事や寺の法要に参列して、仏さまにお参りし、仏教のお話を聞きたずねていくことをおすすめします。

お経を聞いて仏教を理解するのではなく、これまで受け継がれてきた仏の言葉や論註釈を学んだお坊さんのする仏さまのお話を聞いて、仏教にであっていくことが大事です。

以上で、今回のかっけいのラジオを終了します。

それと最後に、意味の分からないお経文に関するとあるエピソードを一つ紹介しますね。

これは香川県に住んでいた庄松さんという人物のエピソードです。200年ほど昔の人です。

庄松さんは読み書きのできない人でした。

しかし南無阿弥陀仏の教えに出あい、お念仏に生きた人で、妙好人として人びとに慕われていました。

あるとき、あるお坊さんが、お経の文字も読めない庄松さんに対して意地悪しようと、みんなの前でお経に書かれていることを説明するように求めます。

庄松さんは、さし出されたお経典をそのままいただきます。

すると、お経典は逆様の状態のままです。

文字も読めない庄松らしいと馬鹿にしていたお坊さんですが、庄松さんは大きな声で言います。

「ここに庄松、助くるぞ、助くるぞと書いてある」と口にしました。

その言葉を聞いたとき、その意地悪したお坊さんはハッとし、そしてすぐに庄松さんに謝りました。

お経には人を悩ませるようなことは書いていません。ただ仏様の方から、あなた一人を救うということが書かれています。

お経の文字が読めることや、言葉の意味一つひとつがわかることが大事なのではないです。仏さまからの願い、その心を、お話を聞いていくことによっていただいてくことが大事なんですね。

お経を知識として読むのではなく、仏さまからの説法、願いとして聞いていくことを妙好人のこのエピソードは伝えてくださっています。

かっけい
かっけい

参考に、下のリンクは私が訳した仏説阿弥陀経の現代語訳です。

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